ワイルドで行こう



しかも。つい最近、爆発的に大ヒットした同郷発の『島レモンマーマレード』の作り手である二宮果樹園のカネコおばあちゃんから名指しの依頼を戴き、果樹園が提携している真田珈琲と全国大手メーカーのカメリア珈琲からも依頼が舞い込むようになって、日々、打ち合わせに琴子も追われていた。

 それもこれ。あの時、夫の英児が『嫁さんの元カレ? んなヤツのデザインなんかいらねえ』なんて、小さなことをいう男ではなかったから。

 そのおかげで、琴子の勤め先にも恩恵がまわってきた。この事務所の誰もが思っている。『あの時、滝田社長が本多のデザインを採用したから……』と。

「シーズン限定のステッカーデザインの話、受けるからと旦那に返事をしておいてくれ」
「ありがとう」
「結婚、おめでとう」

 仕事の会話のどさくさに紛れこませたような最後の一言に、琴子はハッと顔を上げる。

 この事務所で誰もが琴子の結婚を祝ってくれても、彼からは一言も……、当然だけれどなかった。それは琴子も求めていない。そしてそんな一言……やっぱり一度は愛した男性に言わせたくなかった……。そんな一言を。

 なのに。結婚して三ヶ月。もう新婚生活といっても、既に龍星轟での夫との生活も日常に馴染んできた今になって……。

「……ありがとう、雅彦君」

 背を向けたままの彼に。もう二度と言わないと決めた呼び名を。でもこれで絶対最後。

「ありがとう」

 俺とはだめだったけど。これでよかったよ。あの旦那なら、琴子、お前、幸せになれるよ。

 手前勝手かもしれないけれど、そう聞こえた。 琴子も背を向け、そして涙がこぼれそうになった顔を上げ、そこを去る。
 

 さあ、帰ろう。夫が待つところへ。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 ガルガルとワザと吠えているようなエンジン音も、だいぶ聞き慣れた。
 この車ではないと物足りなく思ったりする。
 アクセルを踏んで、ハンドルを切って、駐車場へ。
 帰宅途中のいつものスーパーマーケットに到着。

 駐車した銀色のフェアレディZから降り、ハンドバッグ片手に店内へ向かう。その時ふと振り返って、琴子はちょっと笑ってしまう。

 夕方、主婦が多い時間帯に、あんな厳つい男の車が停まっている。かなり目立ち違和感。だけど、琴子はやっぱり笑ってしまう。そして幸せを噛みしめる。

 自分一人では絶対に選ばなかっただろう厳つい車が愛車になっている。それはまるで、正反対である夫が毎日傍についてくれているような、送り迎えをしてくれているような、そんな気持ちになる。

 夫が手入れをしてくれている愛車。夫が『婚約の記念に。結婚したらお前の車』と譲ってくれた愛車。車好きの夫が手放してくれたのだから、余程のことと琴子は受け止めている。

 あの車は琴子にとっては『婚約指輪』に等しい。一生大事に乗ると決めていた。




< 613 / 698 >

この作品をシェア

pagetop