愛を餌に罪は育つ
そうだ――今まで身につけてきた知識なら次々に頭に浮かぶのに、自分の事や朝陽さんのことは何一つ分からない。


他にも分からないことは沢山あるのかもしれない。



『ご自分の事を私にお話できますか?』

「――――いえ、できません」

『ではご家族のことは?』

「家族?」

『そうです。何人家族だとか兄弟は何人いるとか、簡単なことで構いません』



思い出そうとするのに頭の中は真っ白で働こうとしてくれない。


私の両親は2人とも健在なんだろうか――兄弟はいるんだろうか――一人っ子なんだろうか――――。


何一つ分からなかった。



「すみません――分からないです。私――頭が可笑しくなったから病院に連れてこられたんですか?」

『それは違います。大野さん、貴女は倒れているところを発見されて救急車でここまで運び込まれたんです』

「倒れて、いた?」

『詳しい事情は私からはお話できませんので、明日改めて説明してくれる方がいらっしゃいますので、その方々に病院までの経緯を伺って下さい』



何で先生の口からは説明できないの?


自分が誰だか分からない上に病院にいる理由さえ分からない。


今頃になって不安が込み上げてくる。



『先生、美咲は――その、記憶喪失ということなんでしょうか』

『恐らくは。どの程度の記憶障害かは明日の検査でだいたい分かるとは思いますが、記憶がいつ戻るかは分かりません。最悪戻らない可能性もあることを胸に留めておいて下さい』

『そんな――』



先生は椅子から立ち上がると頭を下げ、病室から出て行ってしまった。


病室には朝陽さんのすすり泣く声だけが虚しく響いていた。






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