戸惑いの姫君と貴公子は、オフィスがお好き?【改訂版】


いや…、私の場合はただただ逃げたかった。

おしゃべりなマーくんから漏れ出た、嘗てはとても仲の良かった人の名前に逃げたのだ。


今は昔というのか…、名古屋へ逃げてから連絡が取れずにきた人の名に罪悪感しかない。


彩人兄か…、今も変わらず檜舞台で華々しく活躍する姿を私は一切見ないし、テレビを通しても見たいとも思えない。…もう歌舞伎の世界はいい――



着物姿で小刻みに歩いて行けば、あれからさらに年月を重ねた和の造りに、幾分ホッと心が落ち着いた。


跡取り息子の奔放すぎる性格にはやはり疲れるけども、何と言っても此処は日本有数の料亭。この古き良きの風情は、いつ見ても素晴らしい。


この池では小さな頃、マーくんたちと一緒に大きな錦鯉にえさを与えていた。そんな懐かしい光景が蘇えってくるから不思議なものだ。



「専務、どうかしましたか?」

「何がですか?」

「…、」

密かに懐古していた私の後ろを来る、無表情な専務の機嫌がすこぶる悪い。せっかくの優美さが薄れて台無しも良いトコロ。


むしろ意味もなく尋ね返されると、心配したコチラの方が反応に困る。色々と疲れて来た私は、言葉を返すことなく立ち止まらず歩き続けた。



ノン・シュガーであることこそ、本来の私たちの関係――それに少なからずショックを受け、とても小さく自嘲する自分を悲しく思うばかりだ。


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