大海の一滴

「……」
 薄い唇をだらしなく開けたまま、渡辺さんが呆然とする。


「まゆみさんが苛めの対象に選んだのは、絵画コンクールや、作文コンクール等で受賞した子や、良い行いをしてクラス全員の前で先生に賞賛されたお子さんだったそうです」
 とても穏やかで、けれど、教師として年月を経た威厳を含む声で、教頭先生がまとめた。

「優秀なお子さんを持たれると、期待も大きくなります。それは子供にとって嬉しいことでもあり、同時に負担でもあるのです。特に、お子さんが優秀であればあるほど、期待は膨らみ、それに応えようと子供の負担も大きくなる。私達教師は、まゆみさんのSOSにすぐ対処するべきだったのです。反省すべき点はそこにあります。従って、今回の夏川先生の指導は間違っていなかったと考えます」

「そんな! 学校側はグルになって責任逃れをなさるおつもりなんですか?」

「いいえ、そういうことではありません。責任はあります。渡辺まゆみさんの指導に、行き届かなかった点があったのは事実です。もっと早くに彼女の危険信号を察知し、対処すべきであったと反省しております。特に、吉川先生、加賀先生の両人は、自身の行為を多いに反省しなくてはなりません。しかし、今回の件に関して、夏川先生が謝らなければならない事実は、一切ないということです」

 最後に、校長先生がきっぱり言い放った。

 
 ふと、穏やかな秋野さんの声が聞こえた。
帰り際に彼女が言ったセリフ。


『夏川さんは正しいことをすればいい。あなたにはその力があるわ。あなたは教師が生徒に及ぼす影響力は大きいと考えている。参考書を読むのは間違えた指導をしないためよ。あなたは、自分が思っている以上に生徒のことを思っている。とても良い先生よ』


「ありえないわ。ねえ、皆さん」
 未だに渡辺さんはキンキンと吠えている。
「……」
「……」
「……」
 ばつが悪そうな表情の、側近たちが見える。




『正しいことは評価される。大丈夫よ。それに』



 ガチャ。


「失礼します。渡辺まゆみの父です」


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