大海の一滴
秋野月子との待ち合わせ場所は、前回と同じ喫茶「ヘブンズクローバー」だった。
相変わらず古ぼけた小さな喫茶店だ。
この類の喫茶店は決して流行っているようには見えないのに、何年経っても潰れずそこにあるのはどういう仕組みなのだろう。
(そう言えば昔、二人の女の子から四つ葉のクローバーを貰ったことがあったな)
ふとそんなことを思い出した。
当時単身赴任だった父親の所へ、数週間遊びに行った時の話だ。
近くに住んでいた年下の女の子達から、クローバーを渡された。
海辺の、綺麗な町だった気がする。あれは何県だったのだろう。
(あれ? 親父は地方公務員なのに、何で他の県に赴任していたんだ?)
長期的な研修とか出張みたいなものだったのだろうか?
そう言えば、背広じゃなくて青っぽい作業着を着ていた気がするな。
(貰ったクローバーはどうしたんだっけ?)
記憶を辿ってみたが、クローバーの所在も女の子達の名前はもちろん、輪郭すら思い出せなかった。
それほど昔の話だ。それに今は郷愁に浸っている場合ではない。
ガラン。
木造の重厚な扉を開くと、上に取り付けられていた銅版のベルがくぐもった音を立てた。
天井から釣り下がっている卵形の照明はオイルランプそっくりの色合いを作り出し、狭い店内は薄暗い洞窟のようだ。
客は二人。
一人は、内側に婉曲した細長いカウンターに腰掛けている白髪の老人で、店員の男性と何やら話し込んでいる。
そしてもう一人。
窓際の四人がけテーブルに礼儀正しく座る若い女性。
秋野月子である。