大海の一滴

 教室は空き部屋に机と椅子を並べただけのシンプルなものでした。
黒板の変わりに八十センチほどのホワイトボードが掛けられていて、その横でキャスター付きの丸椅子に座った白衣の男性が、腕を組んだまま眠っていたのを覚えています。
 その日は縦横三列ずつ並んだ机に、四人の生徒がばらばらに着席し、ばらばらなことをしていました。

 点滴をしながら折り紙を折っている小さな女の子、熱心にクロスワードパズルを解いている少年、難しい顔で英語のプリントと向き合っているマッチ棒のような男の子。
 そして机の上にハードカバーの分厚い本を立て掛けて、両肘を付いたまま退屈そうに窓の外を眺めている、私と同じくらいの年齢の女の子です。

 
 室内は病院特有の薬臭く、ほのかに甘い匂いが充満していました。
私がしばらく立ちつくしていると、窓を眺めていた少女が突然振り返り手招きをしました。
 誘われるままに隣の席に腰掛けると、彼女は満足そうに頷いて、「さちって呼んでね」と笑いました。
 それが彼女との出会いです。


 当時、院内学級では自分に好きな名前を付けるという流行があって、どう見ても日本人の男の子がマイケルと名乗ったり、アイドルと同じニックネームの女の子がいたり、本名がダサいからと、それっぽい違う名前を自分にあてがっている子もいました。
 一種の妄想遊びです。

 都合の良いことに私達の本名は巧妙に隠されていましたから、皆名前を変えて楽しんでいたのです。
 もしかしたら、深刻な現実逃避も雑じっていたかもしれません。

 ですから、彼女の名前が本名だったのかそれともあて名だったのかは分かりません。
 そこでは自分をさちと名乗る限り彼女はさちちゃんであり、私も月子の『子』の字を取ったつきちゃんだったのです。


 同い年だった私達は、すぐに親しくなりました。

 私達はお互いの病気について一切を話しませんでしたが、服用している薬や点滴の種類の違いから、お互い別の病気であり、そして、どちらもかなり状態の良くないことを知っていました。







< 119 / 240 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop