大海の一滴
達之はもう一度、あの光景を思い出そうと務めた。
海辺の町で青い服を着た父。あれはどこで、父は何をしていたのか。
やはり遠い昔で自分がどうしてそこにいたのかさえ分からなかった。
達之にとってはそれほど重要な思い出ではなかったのだ。
もしかしたらあれは、長期休暇に祖父母の家へ遊びに行った時のことだったかもしれないな。
母方の実家は青森市内にある。三十分も歩けば海に着く立地だ。
当時、祖父母の家は自宅の一階で自転車屋を営んでいた。
父はその手伝いをするためにその辺にあった汚れてもいいような青い色の服を借りていたのかもしれない。
その解釈が、しっくりくる気がする。
まだオレは子供だった。
あの辺りの風景が、見知らぬ景色に見えていてもおかしくはない。
一緒に遊んだ女の子達にしても、たまたま遊びに来ていた遠い親戚だとしたら説明がつく。
きっとそんな程度のよくある思い出で、だから達之は覚えていないのだ。
つまり、秋野月子が病院の窓から見た男性とは別人ということである。
第一、海辺の町にいる青い作業服を着た男性なんて、いくらでもいるとは言わないが、全く珍しいというわけでもないだろう。
(でも)
厚いスモッグがかかった頭の中の風景が、ひたすらに警鐘を鳴らしていた。
安易なことは喋らない方がいい。
彼女の言う海辺の病院で何がなされていたのか。
公に出来ない類の何かだったことは確実だ。
そんな場所と達之の父との間に、何かしらの関係があるとは思えなかった。
(親父は悪いことが出来るタイプじゃないしな)
達之の父は仕事熱心で、ある種奉仕的な人だった。
困った人を助けるためなら無償で残業や休日返上を繰り返し粘り強く問題解決に取り組む真面目を絵にしたような人物で、子供の頃はそこに不満を感じることもあった。
が、やがてそれは尊敬の念へと変わり、だから達之も将来は父と同じ職業に就こうと考えた時期もあったのだ。
『公務員にはならない方がいい』
ふと、溜息にも似た、父の呟きが蘇った。