大海の一滴

 結局、あっという間に辞めてしまった根性なしの五十嵐は、人件費がかさんだだけで何の利益も生まなかった。

 ボコボコと吹き上がる赤黒いマグマのような怒りがしばらくの間達之の血を煮えたぎらせていたが、五十嵐退職後、嘘みたいに業務がはかどって行き、新しく入ったバイト君は、若いのに良く気が利いて文句も言わずテキパキと仕事をこなしてくれた。

 おかげで少ないながらも休日まで戻って来て、なんだかんだで綺麗さっぱり忘れていたつもりだった。
 それなのに、こんな形であいつを思い出すなんて。
 しかも、自分でも気が付かないうちに性格までうつっていたとは、百害あって一利なしとはまさにあいつの事だ。


 あんな言い草をしたら、美絵子なら眉を寄せ般若顔になるだろう。
『知ったかぶって浅はかな人種って、大嫌いなの』



 ちらりと浮かんだ美絵子の表情が、少し本人と異なるような気がしたのは、きっと気のせいに違いない。




「日本で臓器移植法が成立したのは1997年七月のことで、施行はその年の十月になります」{フリー百科辞典 ウィキペディア 参照}

 秋野月子は別段表情を変えず、達之の続きを淡々と引き取って行った。


 全く、冷静を絵に描いたような人物だ。
表情が読み取れないだけで、内面では軽蔑しているのだろうか?


 そんなことを考えても、結局分からないのだから考えるだけ無駄である。

 ついでに、五十嵐が超常現象についてやけに詳しかった理由も(神がどうのとか、地球外の生命体がどうのとか随分胡散臭い話だったが)ここでは無意味なことなので考えるのを止めた。

 気を取り直して、彼女の話に集中する。
「日本で初めて脳死ドナーの臓器移植手術が実施されたのは、さらに二年後の1999年です。それ以降、脳死ドナーからの臓器移植は何ケースかありますが、藤川さんが仰っていたとおり、なかなか脳死という倫理観は日本人にとって馴染めないもので、結局その後も数えるほどしか行われていません。と言っても、私も文献で調べた程度の浅はかな知識ですので、現在の実情を詳しく知っているわけではありませんし、今回の話に『現在』は直接関係ないのです。ここで重要なのは、法律が制定された年と、日本初の臓器移植が行われた年なのです」{フリー百科事典 ウィキペディア 参照}

「……と、言いますと?」






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