大海の一滴
朝八時起床、妻、美絵子の淹れたコーヒーを薬のように飲み乾し、歯磨き、髭剃り、整髪を十分で済ませると、そのままマンションを出発する。
自転車で二十分の通勤時間を経て、八時四十五分頃会社に到着、九時始業。
帰宅は大体午後八時前後。夜型人間の達之には申し分の無い時間配分だ。
加えて仕事とも相性が良かった。
自社製品の販促営業、購入者へのアフターケア、顧客管理。
入社当初はそれこそ目が回るような忙しさを覚えたが、慣れてしまえば我が家同然、持ち前の要領の良さで手抜きポイントもがっちり押さえ、適度な緊張感で仕事をする。
基盤が整ってしまえば、サラリーマン生活もそう悪く無い。
時を同じくして社会人となった友人の中には、学生時代は自由で良かったと愚痴る奴もいるが、達之には寧ろ今の生活の方が性に合っていた。
それにサプティーはこのご時世で珍しく、年功序列型の会社である。
少ないながらも毎年四月を過ぎれば給与が上乗せされて、ボーナスも年二回、どちらもたっぷり月給の三ヶ月分ある。
妻帯者の住宅手当は、月八万円。
まだマイホーム購入を考えていない藤川家には申し分のない金額だ。
大人買いは出来ないが、たまに好きなジャズやレゲェのCDを買ったり、漫画本を買ったり、時には数千円のスコッチを一、二本衝動買いするくらいの小遣いは貰っている。
家に帰れば程々に片付いた部屋があり、温かいご飯が待っている。
何より労働の後のビールはこの上なく美味い。この味だけはサラリーマンの特権と言っていいだろう。
親からの仕送りでカビ臭いアパートに住み、白飯になめたけや鮭フレークを乗せてかっこんでいた学生時代よりも、ずっと自由で快適だ。
ささやかな幸せ。
そんな言葉がピッタリはまる達之の生活を乱したのは、五十嵐だ。
その五十嵐のために、遅らばせながら歓迎会を開いてやったのは、本当に間違いだった。
アイツはきっと、疫病神に違いない。