大海の一滴
REIKO
「特にこれと言った異常も見当たりませんし……。どうでしょう、一度心療内科を受診なさってみては」
薄汚れたピンクのカーテンで仕切られた質素な診察室で、医者は言った。
夏川麗子は目の前の医者を睨みつける。
「でも、確かに今までとは違うんです。こんな風に忘れるなんてこと、本当に無かったんです」
この医者は、私の頭がおかしいとでも言いたいの?
ろくに検査もしないで心療内科ですって?
馬鹿にするのもいい加減にしてよ。
そんな言葉がつい口からこぼれそうになる。が、すんでのところで踏み留まってしまうのが麗子である。
「そうですか。では一応一週間分のお薬を処方しておきますので、一日三回食後に飲んで下さい」
不健康に色白で、今時珍しい丸い眼鏡を掛けた貧相な医者は、手元のカルテにカタツムリのような曲線をぐるぐる書き込むと隣の看護士に目で合図を送った。
「それでは夏川さん、奥の待合室でお待ち下さい」
やけに真っ青なアイシャドウに品のない赤い口紅の看護士が、病院用の甘ったるい声で命令する。
こんな女にまで馬鹿にされるなんて、もう我慢出来ない。
「薬は結構です。大きな病院でちゃんと見て貰いますから」
ひったくる様にカーテンを開き、ヒール音を甲高く響かせて麗子は会計へ向かった。
出口の自動ドアを蹴り付けてやろうかとも考えたが、流石にそれは教師の振る舞いではないと自分を制す。
姿勢を整え、体験レッスンで習ったうる覚えのモデル歩きをして病院を後にした。
これで今日三件目。
麗子はがっくりと肩を落とした。