大海の一滴
一哉が洗面台からひょっこり顔を出す。
口の端に白い粉がのっている。歯磨きの最中だったようだ。
「うがいして来るから、ちょい待って」
もごもごしながら、一哉が言う。
ちょっととぼけた一哉の顔を見た瞬間、麗子は急に脱力した。
(……私は、どうしてこんなに焦っていたのだろう)
大きな深呼吸をして、学校用のヒールの低いパンプスを脱ぎ始める。
ガラガラガラ。
水の流れと共に一哉のうがいの音がする。何気ない日常が奏でる音。
麗子はそれを聞きながら、冷蔵庫を開けてキンキンに冷えたミネラルウォーターを取り出しコップへと注いだ。
「オレ、もう行かなきゃなんだけど、なんか用事だった?」
タオルを首に巻きつけた一哉が、少し困った顔で麗子を見つめていた。
麗子は考えて首を振る。
実際、何か用事かと聞かれると別に用はなかった。
本当に、どうしてこんなに急いでいたのだろう。
首を傾げて、つぶやくように答えた。
「別に、これと言って用事があったわけじゃないわ」
言った途端、自分がどうしたかったのか、本当に分からなくなってしまった。