大海の一滴
「いい子ね。れいこがいい子だから、お父さんもお母さんも安心して外国へ行けるわ」
お母さんはニコリともせず、事務的にれいこの頭を撫でて戻って行った。
同じく高校の先生をしているお父さんが執筆した『脱教育改革』という本がミリオンセラーになったのは去年のこと。
それでお父さんは、外国で行われる大きな教育プロジェクトに参加することが決まったのだ。
「転校しなくちゃね」
そう言われた時、れいこは嬉しかった。
外国で、お母さんとお父さんと三人で暮らすのだ。
お父さんの仕事について行くんだから、お母さんはきっと専業主婦になるに違いない。
そしたらお手伝いをいっぱいして、お母さんを喜ばして、それで、たまには三人で観光に出かけるのだ。
きっと、今よりずっと楽しくなる。
ところが、違った。
「外国でお母さんもお父さんの仕事を手伝うことになっているの。そうしたら、れいこはまた家で一人になっちゃうでしょ。それでね、お母さんのお母さん、つまりれいこのおばあちゃんが田舎で独り暮らしをしているから、れいこの面倒を見て貰うことにしたの。あそこは海も近いし、自然も豊かだから、きっと楽しいわ。れいこは今年小学四年生になるし、もう大きいから大丈夫よね」
あなたのためよ。とお母さんは言った。
「外国で暮らすなんて小さなれいこには大変だから、日本にいる方がいいと思うのよ」
(お母さん、私は人に預けても大丈夫なくらい大きいのに、外国で一緒に暮らすには小さいの? そんなの変よ)
出かかった言葉を喉元で押し戻すのは、いつしかれいこに備わった癖である。
言いたい事をそのまま口にすれば、お母さんはがっかりする。
逆に何も言わなければ、いい子ねと褒められるのだ。
れいこは唇を噛み締め、涙をこらえて頷いた。