大海の一滴
「麗子」
歩道脇にある小さな公園の薄暗い電燈の前で、一哉ははにかんだ笑顔を見せた。
降り出した雨は図書館を出た時点で既に止んでいたが、空全体に塗り固められた分厚い雲のせいで、闇はいつもより早く訪れている。
麗子は少し驚いた。
時刻は待ち合わせの十分前。時間にルーズな一哉が自分より先にこの公園へ辿り着いているなんて思いもしなかったからだ。
「どうしたの? こんなに早く。その格好も」
スーツ姿の一哉を見るのも初めてだった。
バーテンダーの一哉はスーツを着る必要が無い。
普段は光沢のある黒いベストにシックなデザインのネクタイ、襟と袖に特徴のあるパリッと糊の効いた白シャツを纏ってシェーカーを振っている。
その衣装だって童顔の彼が着るとアイドルのステージ衣装のように、どこか不自然な印象を受ける。
最も、そのバーテンダー姿の一哉目当てにアルコールに弱い女性客までもがカクテルを飲みにくるのだから、似合う似合わないという観念は人それぞれなのだろう。
けれどこのスーツはその比ではないのだ。
おそらくかなり高級なブランドで新調したてのそれは、一哉の身体にフィットするのを頑なに拒み、出来立ての形状を維持しようと努めている。
そのせいで細くしなやかなモデル体型の一哉が長方形に見えるのだ。
「ちょっとね。結構似合うだろ」
「ええ、見違えたわ」
本人は気に入っているようなので、麗子は何も言わない事にした。
まるで子供だ。
麗子は一哉の仕草についてそう感じる時がある。
それは彼が二つ年下という事実からではなく、内から発するオーラのようなものがそうさせるのだろう。
一哉はいつまで経っても大人にならない、ピーターパンのようだ。
それは一哉の長所であり、短所でもある。