大海の一滴
また、スーッと空気が漏れる。
カズ君の手はずっとれいこの背中を擦り続け、れいこの氷のような身体は、いつしか温かみを帯びていた。
頭が重い。ぼおっとする。
「れいちゃん目を閉じて。僕が催眠術をかけてあげる。僕、催眠術と深海魚とお酒には詳しいんだ。催眠術って素人がやっても普通だめなんだけど、きっと今のれいちゃんなら、僕でもいけると思うから。さあ、ゆっくり息を吸って」
ゆっくり息を吸う。
「ゆ~っくり、吐いて。ゆ~っくり、息を吸って。吐いて。さあ、君が一つ息を吸うたびに、身体がすこーしずつ、重たくなっていく。もう一度吸って」
れいこの身体を大きく回しながら、カズ君は囁く。
「そうだよ。君は今、とても深い深い海の底にいる。もっと深く、深く、海を下りて行こう。見たことも無い深海魚が君の前をゆったりと泳いでいる。君は更に深く、もっと深く海を降りて行く。すると君の目の前に、もう一人の君が現れる。もう一人の君は、この町で経験した全ての記憶をそっくり貰い受け、海の中で深い眠りにつく。代わりに君は、この町で経験した全ての悪い記憶を忘れてしまう。君が次に目を開けた時、君はこの町で起こった全ての悪い記憶を忘れている」
暗く深い海の底に、うずくまるれいこが見えた。