大海の一滴

SACHI

 ガラン

 無駄に重いドアを押すと、牛の首に付いていそうな、音の悪いベルが鳴った。



「いらっしゃいませ」
 神様が仰った。私はカウンターに座る。喫茶店は貸切状態だ。

「決して流行っていないわけではない」
 少しがっかりした表情で、黒ひげに黒ハット、ついでに目の周りも黒い神様が仰った。

「それからこれは、チャップリンだ」
 私は神妙に頷いて、美和から拝借したキリンのアップリケが刺繍された手提げ鞄から、A4ノートを取り出した。

「例のブツです」
「うむ」

 神様が中身を確かめる。それは、私の個人情報が大いに詰まった貴重な品。


 つまり日記帳である。



「神様」
「なんだ」

「この日記には、何か意味があるのでしょうか?」
「人間の生態観察に役立つ」

「……なるほど」
「この日記、解せぬところがある」

「なんでしょう」
「何故言葉の意味まで付いているのだ?」

「もう一人の私が、昔よく辞書を引いていたので真似してみたのです」
「……なるほど」

 神様は私に水を与えたもうた。



「コーヒーはいただけないのでしょうか」
「ブレンドコーヒーは、三百五十円になります」
「……なるほど」
 神様は商売上手なのだ。



「それで、決まったのか?」
 私は神妙に頷いた。それから、慎重に尋ねた。
 
「これは、人殺しにはならないのでしょうか?」
 私はお縄になりたくないのである。

「当たり前だ」
 神様はフフンと髭を撫で付けた。



「元々、お前は死ぬはずではなかったのだ」





 神様は、遠い目をした。




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