大海の一滴
最終章
REIKO
「いろいろ、嘘ついててごめん」
一哉は琥珀色のショートカクテルを出しながら、薄く微笑んだ。
それには手を付けず、黙って一哉を見つめる。
今は、アルコールに思考の末端を麻痺されたくなかった。
「……やっぱり、こんな奴の作ったカクテルじゃ、飲みたくないよね」
初めて聞く一哉のネガティブな発言だった。
そうじゃないわ。
出掛かった言葉は重い重力に耐え切れず、代わりに感情のこもらない軽く渇いた言葉が口を付いた。
「私はここへ、カクテルを飲みに来たわけじゃないわ」
哀しそうな笑みを張り付かせ「そうだね」と一哉は呟き、話し始める。
「子供騙しの催眠術だったんだ。あの時、酷く取り乱している麗子を見て、何とか助けたいって思った。とにかくその場だけでも楽にしてあげたい。そんな気持ちだった。一時的なつもりだったんだ。実際、全てを忘れるって言ったって、その後すぐに引っ越すわけにも行かないだろうし、そうなればあの町全部を忘れるなんて物理的に不可能だと思っていた。だからこそ、最後にオレ、妄想と願望を付け加えたんだ。あの頃からオレは麗子が好きだったから」
「……だけど、私はその日のうちに引っ越すことになった」
そこで誤算が生じた。
父と母が参加していたプロジェクト。
その赴任先は日本から数時間足らずのフライト距離にある、韓国ソウルだった。
祖母に電話で聞いたのか、それとも何か別の方法で知ったのか、母はいち早く事件を知り、その日の飛行機で麗子を迎えに来たのだ。
鬼のような形相の母は、荷物やその他手続きは後ですると祖母にまくし立て、そのまま町を後にした。
常に強引な母だったが、あの日は殊更ヒステリックだったように思う。
母は、あの町を忌み嫌っていた。
「やっぱりあんな所にあなたを預けたのは失敗だったわ。忘れなさい、全て。分かったわね。この町のことは忘れるの、いい?」
揺れる電車の窓際で何度も頷かされた母のセリフも、一哉の催眠術の浸透に一躍買っていたのかもしれない。
元の生活に戻ってからもしばらくの間、麗子の記憶はあやふやだった。