大海の一滴
第二章 ~いらだち~

TATUYUKI

 ハアー。
 オレンジ色の自転車をこぎながら達之は再び溜息を吐いた。
今日はいつもより溜息が多い。自分でも実感している。

『溜息を一回付くと、幸せが一回逃げちゃうのよ』

 そんなこと、美絵子が言ってたっけ。

 腕時計の針は、午後九時十七分を指し示していた。
それもこれも五十嵐の一時間にも及ぶ電話のせいで、仕事が大幅に遅れてしまったからだ。

「実は僕、辞めようかなと思って。佐藤さん的には、その方が嬉しいんだろうし」
 思ったとおり、いつもの『辞めようかな』宣言だった。

 誰だって辞職を考える時期というものはある。

『サプティー三年目ルール』
 達之の会社には、ずっと昔からそんな言葉が脈々と受け継がれている。

 採用されて仕事に馴染んできた三年目、最も辞職する確率が高くなるのだ。
事実、同僚や先輩社員達の何人かは、転職を選び会社を去って行った。
 これは何もサプティーに限ったことではない。
おそらくどこの会社でもそうなのだろう。

 だが、五十嵐の『辞めようかな』は、こういったレベルのものではなくトイレットペーパーのように薄っぺらいのだ。

 五十嵐はちょっと嫌な事があると『辞めようかな』と言い、ちょっと良い事があると(事務の女の子に話しかけられたといった、仕事とは無関係の代物であるが)、『やっぱり続けます。この間のことは忘れて下さい』と、簡単にレバーを引いて水に流してしまうのだ。

 それでも管理職であり、自らが人選した達之は対処しなければならない。
うんざりするほど長くくだらない五十嵐剛の愚痴に相槌を打ち、時には慰め大丈夫だと励ます。

「まあ、すぐに結論を出す必要はないから、もう一度じっくり考えた方がいい。佐藤君とも話してみるから」
 やっとの思いで電話を切ると、待ってましたと五時のチャイムが鳴った。

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