大海の一滴
その名のとおり、ウォッカの海に生姜の薄切りを漬け込んだものである。
一哉の作るジンジャーウォッカには生姜以外にも数種類の香辛料が入っているが、それは企業秘密なのだそうだ。
いつの間に用意したのか、隣の青いクーラーボックスには、炭酸水と氷、そして新鮮なライムが入っていた。
一哉の作るモスコミュールは酸味、甘味、苦味、辛味の全てが、麗子好みの加減なのだ。
最後に残る余韻までも……。
麗子はほおっとため息をついた。
「やっぱり、美味しいわ」
「だろ? 疲れている時はこれが一番」
一哉が満足気ににかりと笑う。
一哉の笑顔は、初めて会った時から変わらず人懐っこい。
『ウチではジンジャービアの代わりに、これを使うんです』
あの時も、カウンター越しの一哉はそう言って笑った。
ちょうどこんな風に……。
上品過ぎる物言いは照れ隠しだったのだと今なら分かる。
でもあの頃はまだ、客と店員に過ぎなかった。
カラン。
タンブラーを揺らすと、氷が涼しげな音色を奏でた。
(このモスコミュールが、一哉と私の始まりだった)
時々、味覚や嗅覚は記憶を鮮明に蘇らせる。
麗子は少しセンチメンタルな気分になり、あの日を思い返し、そして不思議に思った。
(やっぱり、あの日の私は、きっとどうかしていた)
ありえない行動だった。まるで、何かに取り憑かれたかのように。
『好きです』
大胆に告白したのは、麗子の方だったのだから。