大海の一滴

「な~に、遠い目してんのぉ?」
 隣りで『恋人』になった一哉が笑う。

「え? あ」
 麗子は赤くなった。

「えっと……de Menigisuってどういう意味なのかな、と思って」

 慌ててそんなことを口走る。

 咄嗟に口を付いた言葉だった。
けれど、それはずっと麗子が聞きたかったことでもあった。
 
 「de Menigisu」とは、一哉のバーの名前だ。


 古く小汚い鉄筋ビルの地下にある、小さなバー『de Menigisu』。


 あの日、麗子が一哉のいるバーに立ち寄ったのは、この名前に、妙に心惹かれたからなのだ。

 その日は夕方まで友人の結婚式があり、軽くシャンパンを口にしていた。



 そのせいだろうか?



 間違えるはずもない電車を間違え、乗ったことのない私鉄に乗って、気が付くと知らない街に降り立っていた。

 夜も深くなっていたし、帰らなければと思いながらも、ふとその辺を散策したい気分に駆られたのだ。

 今思えばそれだって随分不思議なことだった。

 麗子は細い路地裏に迷い込み、そこで『de Menigisu』の看板を目にした。

 内側に蛍光灯が点ったスタンド型の看板は、周囲に並ぶスナックや小料理店のそれと似通っていて、特色なんてなかった。
それでいてその何の変哲もない看板は、がっちりと麗子の心を掴んで離さなかったのだ。



「さあ、バーの名前はオレが付けたわけじゃないからな」
「隆文さん?」

「そう。オレと違って、あの人はあんまりそういうこと喋んないからさ。お互い干渉もしないっていう暗黙の了解? もあるしね」

 一哉は、少し困ったような顔をする。

 バー『de Menigisu』は、一哉ともう一人、隆文さんという男性の二人が経営している。

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