大海の一滴
隆文さんは、一哉が大手ホテルのラウンジでシェーカーを振っていた頃の先輩なのだそう。
二人は貯めたお金を資本金に独立し『de Menigisu』を立ち上げた。
麗子がバーに通うようになって随分経つ。
けれども、未だ隆文さんとの面識は無い。
その理由の一つに、麗子が訪れる日は一哉がカウンターに立っているからということがある。
『de Menigisu』はカウンターが八席、四人がけのテーブル席が二席のこぢんまりしたバーだ。
だから、通常カウンターに立つのは一人で、余った方はホールで事務や雑用をしたり、アルコールや備品の買い出しに行ったり、または休みを取っていたりするのだそうだ。
加えて隆文さんは相当シャイな性格だと言う。
麗子が店に来るとなると、一哉も知らない間に隆文さんは裏口から外出してしまうそうだ。
そんなにシャイで果たしてバーテンダーという職業が務まるのだろうかと麗子は不思議に思うが、いかにも口が達者な営業職の人が私生活では驚くほど人見知りだったりすると、何かの本で読んだことがある。
隆文さんもきっとそういうタイプなのだろう。
一度だけ、麗子は興味本位に隆文さんに会ってみたいと頼んだ事があった。
その時も一哉は少し困ったような顔を浮かべて言った。
「うちらはプライベートに立ち入らないのが、暗黙の了解なんだ。この先も一緒に仕事を続けていくためには、その方が都合がいいんだよ」
その意味は麗子も何となく理解出来たし、それっきり、隆文さんのことは聞かないことに決めたのだ。
「deって付くから多分フランス語じゃないかと思うんだけど、確か「~の」って意味だったような。あれ? イタリア語だっけっか? う~ん、スペインってのも捨て難いな」
まだ真剣に悩んでいる一哉を、今日はふと可愛いと麗子は思った。
「ふふ、もういいわ。なんとなく気になっただけだから。さあ、しっかり休憩も取ったことだし、そろそろ片付けないと日が暮れてしまうわ」
「うわっ。出たよ、先生気質」
大げさにおどけてみせる一哉に、麗子はいたずらっぽく笑った。
「一哉君、しっかり頑張りましょうね」