大海の一滴
SACHI
誘惑
[名](スル)心を迷わせて、誘い込むこと。良くないことにおびき出すこと。「―に負ける」「悪い仲間に―される」{小学館 デジタル大辞泉引用}
魅了
[名](スル)人の心をすっかりひきつけて、うっとりさせてしまうこと。「見るものの心を―する絵画」{小学館 デジタル大辞泉引用}
なのだ。
愛美ちゃんのママは言った。
「難しい問題ね」
「難しい問題ですか」
「ええ。とても難しい問題よ」
愛美ちゃんのママが焼いたクッキーは、大人の味がする。
「秘密はブラックなの」
「ブラックですか?」
「そう、ブラック」
愛美ちゃんのママは、花柄のティーカップに口を近づけた。
この愛美ちゃんと同じぽってり厚い唇は、きっと男を誘惑して魅了するに違いない。
「甘いものは素敵だけど、ほんの少しだけブラックを加えてあげるの。例えばこのクッキーね。たっぷりのバターの中に、ほんの少しだけコーヒーを練りこんでいるのよ」
ほろ苦さをプラスすると、スウィートなものが大人の味になるの。と、愛美ちゃんのママが真っ赤な薔薇みたいに笑った。
ギーコ、キィ。キッ、ギギー、キィ。
いつもの公園の、いつものオンボロブランコで呟いてみる。
「甘くほろ苦いものって、何かしら」
大人の女というのは、時には考えていることを無意識に呟かなければならないのだ。
キーーー、キィ。キィ、キィ、キィ。
ブランコから飛び降りてパチンと指を鳴らす。
本当は鳴っていないけど、鳴らした振りをした。
「決め手は料理ね」
古より、男は胃袋を掴めと言われている。確かそうだった。問題は何を作るかである。
「甘くほろ苦いものねぇ」
もう一度呟いて、フウと、私は大げさに溜息を付いた。
男を誘惑して魅了する料理を、私は作らなければならないのである。
「難しい問題ね」
愛美ちゃんのママを真似してみる。
ハアー。
私はがっくり肩を落とした。
大人の女への道のりは、とても険しいのだ。