大海の一滴

「愛美ちゃんの唇は、すっごく可愛いね」
 ヒロ君がうっとりする。

 やっぱりあの唇は、男を誘惑して魅了するのだ。

 それにしても、詰めが甘かった。
私は甘ったるいクッキーを食べながら考える。
 実のところ、私はアイロンのかけ方も、洗濯の仕方も知らないのだ。


「ねえねえ、タケヒロって、本当にさっちゃんの彼氏なの?」
 考え事に忙しい私に、ヒロ君が尋ねた。

「さあ、どうかしら」
 私はちょっと口角を上げて、不敵な笑みを浮かべた。
 大人の女には秘密が必要なのである。そして秘密は多い方がいい。
 私は自分の秘密の数を心の中で数えた。


 その一、私が大人の男を愛していること。


 その二、だから、私は大人にならなければいけないということ。


 その三、私には時間が無いこと。




 ううむ、まだ三つしかないのか。




「ねえねえ、愛美ちゃんはどう思う?」
 私に相手にされなかったヒロ君は、愛美ちゃんに尋ねている。

「ママ、ココアをお替りしてもいい?」
 愛美ちゃんの興味は、ココアにあるようだ。

「じゃあさ、愛美ちゃんのママはどう思う?」
 ちょっとふてくされて、ヒロ君が聞いた。

「さあ、どうかしらね」
 ふふ。と、愛美ちゃんのママが真っ赤な薔薇みたいに笑ってヒロ君を撫でた。



 チン。



「アップルパイが焼けたわ」
 キッチンへ向かう愛美ちゃんママが、私にこっそり教えてくれる。

「ワイシャツの事は分からないけれど、料理は相手によって味付けを変えるのよ。さちちゃんと愛美にはビターなクッキー。甘えん坊のヒロ君にはスイートなクッキー。今日は部屋中に恋が咲いているから、アップルパイのリンゴは、甘酸っぱい紅玉にしたの」


 なるほど。料理というのは奥が深い。



 とりあえずワイシャツは置いておいて、カレーに再挑戦することにしよう。



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