大海の一滴
「いくつかのテストをしてもらった結果、対人関係に恐怖を抱いている可能性があるわ。それから夏川さんの記憶力はとても優れている。最近の事柄はもちろん、遡って行くと幼稚園やもっと幼い頃の記憶まで鮮明に覚えているの。その時の景色や匂いまで。だけど、記憶が曖昧になっている部分がある。あなたが小学生、特に小学四年生だった一年間よ」
「……昔のことだもの。忘れている部分だってあるわ」
「そうね。では分かっている部分を聞かせて。小学四年生の夏休み、あなたは何をしていた?」
「何を?」
「何でもいいの。夏休みの一ヶ月間で、一番印象に残っていることとか、宿題の内容とか。家族旅行のことでもいいわ」
「……」
「質問を変えるわね。同じように思い出してみて。小学一年生の夏休みはどう?」
「……自由研究で朝顔を育てていたわ。それから、お金を入れると耳が回る顔型の貯金箱を作った」
「普通、小学生の頃の自由研究なんて覚えていない人が多いけれど、どうして夏川さんはそんなに覚えていられるの?」
「それは……、教師をしていた両親、特に母が、私の自由研究にとても力を入れていたから」
忙しい両親が、唯一一緒に取り組んでくれたのが自由研究だった。
結局は、世間に恥ずかしくないものを提出させるため、つまりは、自分たちの名声のためだった。
それでも子供の頃の麗子が楽しいと思った、両親との唯一の記憶だった。
「じゃあ、小学二年生の時の夏休みの自由研究はなんだったか覚えている?」
「家族で伊豆旅行に行った時に、河原で集めた石を使って、動物図鑑を作ったわ」
「小学三年生は?」
「買って貰ったばかりの顕微鏡で、微生物のスケッチをした」
一体秋野さんは、何を言いたいのだろう。
「では、小学六年生はどう?」
「紫キャベツの汁を使って、酸性とアルカリ性の実験を行った」
「じゃあ、小学五年生は?」
「天体観測ね」
「小学四年生は?」
「……思い出せない」
おかしい。
麗子も異変に気が付いた。
思い出そうとすると、靄が掛かったように頭がぼおっとしてくる。
他は間髪入れず出て来るというのに。