甘い罠
「その信号を左で」

瑠璃の家が近づいていた

木村は押し黙ったままだった

瑠璃には木村が黙ってしまった訳がさっぱり分からなかったが、そのことには触れないでいた

「この辺なんだ、瑠璃ちゃん家」木村がようやく口を開く

「あ、はい
もうすぐです…」

木村が話し掛けてくれたことにホッとしながらも、瑠璃には1つ残念に思うことがあった


木村と連絡先を交換していないのだ

木村も聞こうとしない

自分から聞くことなんて、到底出来ない性格の瑠璃である

さっきのことで、会話も特に弾むこともなかった
多分、碧にまた小バカにされたような口ぶりで、「駄目ねぇ、瑠璃は」などと言われてしまうかもしれない

そう考えると、気が滅入った


「あ、ここでいいです」

瑠璃のアパートの前で、タクシーは停車する

「へぇ、ここに住んでるんだ」
木村は瑠璃のアパートを見上げた

タクシーから降り、瑠璃は精一杯の笑顔でお礼を言った
 
「俺も楽しかったよ
また…」
と言いかけて、「あっ、そうそう」と、ポケットを探る

木村のポケットから、黒いスマートフォンが出てきたのを見て、瑠璃はドキッとした

文字盤に触れようとして、木村はバックミラーに写る運転手をチラッと見た

「あぁ、良かったら碧ちゃんに、瑠璃ちゃんの連絡先聞いてもいいかな?」

声のトーンを落とし、木村が言った

瑠璃はガッツポーズしたくなるほどだったが、「もちろん」と落ち着いた笑顔で答えた

「じゃ、おやすみ」

木村が手を振ると、扉は閉まり、タクシーは発車した

タクシーのバックライトを見送りながら、瑠璃も小さく手を振った

木村が連絡先を聞いていいかと尋ねてくれた

社交辞令かもしれないが、今はホッとするような嬉しさが勝っていた

アパートの階段を、小躍りしたい気分で瑠璃は登った
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