抹茶な風に誘われて。
「どうして逃げるんだよ……ぼ、僕が、こんなに君のことを想ってるのに……っ!」

 猫背気味だった体を起こして、それまでとは別人のような力で私を引き寄せる。

 両手首を掴まれて、壁に押し付けられて、やっと震える唇を開くことができた。

「いっ、いや……静さんっ!!」

 無我夢中で、呼んだ。

 優月ちゃんのことも、咲ちゃんのことも、何も考えられなかった。

 ただ、掴まれた手と、近づいてこようとする唇が怖くて。

 いつもの優しい手とは違う、知らない感触に耐えられなくて――叫んでいた。

「うあっ」

 突然、掴まれていた手が離れた。

 それと同時にくぐもった声が何度か聞こえて、その人が壁にぶつかるような音がしたのだ。

 その衝撃で壁にかけられていた懐中電灯が落ちて、セロハンがはがれる。

 隙間から白い光がもれて、ようやく照らされた空間にいたのは、その人だけじゃなかった。

 最初に見えたのは、着物。

 夏のさなかとは少し違う、落ち着いた秋色の――。

 グリーンのポロシャツを着た知らない男の人が、赤くはれあがった頬に手をあてて、がたがた震えている。

「やっ、やめろ――ひ、人を呼ぶぞっ!」

 ずれたメガネを直しながら、そう叫んだ人を見下ろすのは、冷たい光を浮かべたグレーの瞳。

 浅黒い肌色をした、大きな手がバン、と壁を叩いて、すぐに聞こえたのは聞きなれた低音の声。

「呼べるものなら呼んでみろ。困るのはお前のほうなのがわからないのか?」

 言われて、悔しそうに頬をひくつかせる男の人。

 怖くてただ壁際に座り込んでいた私は、こちらを見てくる瞳から逃げるように、着物の背中に飛びついた。

「二度とこいつに近づくな。客としてでも店に来てみろ。今度こそ警察に突き出してやる――失せろ、この変態が」

 さりげなく私を背後にかばうようにしながら、さっきよりも恐ろしい声でそう告げる。

 広い着物の背中からは、懐かしい抹茶の香りがした。
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