抹茶な風に誘われて。
 蘇ってくるのは、優しい母の微笑み。

 嫌がる俺の手を引いて、何度もこの門から家に帰った。

 一条、 と達筆で書かれた表札を見上げると、あの頃とは目線が違うことを嫌でも思い知らされる。

 不思議だった。

 今まで思い出したのは、全てここから逃げた時の嫌な記憶でしかなかったのに。

 ここへ足を向けたものの、帰るつもりなど毛頭なかったから――俺はそのままくるりと背を向けた。

 かをるがやってくるのでは。そう考えて戻った場所だ。

 父親とも思えぬ男に会う気もないのだから。

 おそらく普段は本家であるこの屋敷ではなく、会社にいるはず。

 あくまで後継者育成、という目的以外では俺に寄りつこうとしなかった、あの頃のように。

 思い出してまだしつこく小さな痛みを訴える胸に苦笑しながら、歩を進める。

 東京とは違う緑一面の風景を見渡していた、その時のことだった。

「……静?」

 背後からかけられた声に眉を寄せ、振り返る。

 腕組みをしていた手が、無意識に離れた。

「――綾子」

「やっぱり……本当に静なのね! 久しぶり……一体どうしたの? まさかここであなたに会うなんて」

 昔と変わらぬ優しげな声。女性らしいしとやかな仕草。

 自分と同じく『大人』にはなっているものの、美しい微笑みは以前と全く変わりないものだった。
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