抹茶な風に誘われて。
「配達、行ってきまーす!」

 精一杯元気な声を出して、店内にいる葉子さんに頭を下げた。

 ここ数日心配そうな顔をさせてしまっているのがわかるから、できるだけ笑顔を浮かべる。

 でも心からの笑顔にはなりきれなくて、私は急いで自転車にまたがった。

 今日もまた商店街と地元のお得意さまにお花の配達をする――それが私の仕事。

 あの日と変わらない道を自転車で走りながら、私は曲がり角から顔を背けた。

 ここを左に曲がれば、あの人の家がある。

 夏の午後の、静かな茶会に招待してくれた、あの人の――。

 頭を振って、考えから逃れようとしても心は正直で、どうしてもあの時に舞い戻ってしまう。

 ――なぜ、あんなことをしたの。

 問い詰めたい自分と、怯える自分と、そして深く傷ついた自分とに挟まれて動けない。

 あの人に言うように、簡単に信じて、上がりこんで――あげくの果てにキス、されて……。

 いくら自分が鈍い性格だといっても、あれが特別な行為だってことくらいは知ってる。

 ――初めて、だったのに。

 片手で唇に触れて、また泣きそうになるのを必死で堪えた。

 あんなことされて、私はもっと怒るべきだったんじゃないだろうか。

 そう思うのに、なぜか気持ちはどんどん沈んでいく。

 怒るというより、落ち込んでいる、というべきか。

「ショック……だったのかな」

 声に出してみて、改めてわかった。

 私は無理やりキスされたことが悲しいんじゃなくて、あの人に嘘をつかれたことがショックだったんじゃないかって。

 あの綺麗なグレーの瞳が、暗く曇ったのが悲しかったんじゃないかって。
< 50 / 360 >

この作品をシェア

pagetop