抹茶な風に誘われて。
 ――皮肉なものだ。

 自分は二度と帰らぬと決めた地に、他人は最期の時まで帰りたいと願うのだから。

 茶道だけではなく、茶道具の知識もやはり商売柄持っているらしい主人は、やや緊張気味の手つきで桐箱の蓋をしめ、奥へと運んだ。

 来週には返すからとお辞儀をされて、冷茶まで出されて俺は適当に笑う。

「別に使ってないものだから、いつでも」

 言って帰ろうとした俺をもう一度呼び止めた主人が、挨拶ついでのように口を開いた。

「そういえば、かをるちゃん、お茶席楽しんでいましたか? あれから顔見てないけど」

「ああ……まあ」

 いきなり出された名前に笑顔が掻き消えるのを、自分でも感じた。

 俺の表情の変化に気づいていないはずはなかろうに、主人は愛想笑いを浮かべたまま続ける。

「あ、そうだ――藤田の店長さんが、かをるちゃん夏風邪引いて寝込んでるとか言ってたなあ。あの子もともと体が弱いらしいから、一度寝込むと心配なんですよねえ」

「え――?」

 訊ねかけた俺の背後に、他の客が入ってくる。

 さっさと応対に出た主人に取り残され、頭の中に先ほどの言葉だけが回りだす。

 気づいた時には、俺はさっさと暖簾を潜っていた。
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