「愛してる」、その続きを君に
「気持ちいいね」
そう言う夏海のニット帽で覆われた後頭部を見下ろしながら、雅樹はゆっくりとなだらかな坂道を車椅子を押しながら下っていく。
幸いにも浜辺に下りる途中、豊浜の人間に会うことはなかった。
噂好きのこの町で、今ばったり顔を会わせでもしたら、何を言われるかわかったものではないと彼は内心ヒヤヒヤしていたからだ。
海を間近にして、突然夏海が浜に下りたいと言い出した。
「だめだよ。砂に足をとられて、転ぶに決まってる」
「いいじゃない、ちょっとくらい」
「うーん。ま、今日は特別ということで、市原先生には内緒だよ」
雅樹は彼女に寄り添うと、そろそろと浜辺を歩いた。
まっさらな浜辺に足跡をつけるのが嬉しくて、夏海ははしゃぐ。
久しぶりに見るそんな彼女の顔に、雅樹の心も弾んだ。
「少し休もう」
数メートル歩いたところで、雅樹が言った。
夏海の息はあがり、汗もにじんでいる。
「苦しい?」
「…ううん、大丈夫。興奮しすぎだね、私」
抗がん剤投与を始めてから、彼女の身体には腹水が溜まり、何度か針をさして水を抜くということが行われた。
しかし、血圧や体力的な問題で全ての腹水を抜ききることができず、常にみぞおちあたりに激しい痛みがある。
今も現に顔をしかめるほどの激痛が彼女を襲う。
それでも夏海は雅樹に嘘をついた。
ここまで連れてきてくれた彼に申し訳ないと思ったからだ。
ただ黙って空を仰ぐ。
波の音しか聞こえない。
そして時折吹く、冬間近とは思えぬほどの優しい風。
そんな風の中で吐く息の一つ一つが、信太郎に届けばいい…
彼のもとにどうか届けてほしい…
夏海はそう願いながら、ここで信太郎と過ごした日々を思い出していた。