「愛してる」、その続きを君に
辻本薫は黙ったまま、手元もバッグに視線を落としていた。
雅樹の母である上に職場の上司の細君だということもあり、下手なことは言えない。
克彦は言葉を探しながら彼女と同様、無言で相手の出方を待っていた。
「今日はお願いに参りました」
「はぁ、何でしょう…」
お願い、と言われても克彦には皆目見当がつかない。
「ここではなんですから、廊下で…」
薫は眠る夏海を一瞥すると、そう言った。
薄暗く冷たい廊下は、これから始まる話が深刻であることを予期しているようだった。
「お話というのは?」
克彦が彼女の顔色をうかがうように訊いた。
目の前にいるのは上司、辻本寛治の妻…それだけで身構えてしまう。
豊浜の雇用を担う工場なだけあって、昔から町民はこの家族には気を遣ってきた。
息子の雅樹などは、それが理由でなかなか友達ができなかったほどだ。
当の薫は青白い顔をしていた。
蛍光灯の白い光のせいばかりとは言い難い。
「雅樹を、息子を返していただけませんか」
唐突な言葉に、克彦は目を白黒させた。
「はい?」
「お願いします、あの子を返してください」
薫はそう言うなり、いきなり克彦の腕にしがみついてきた。
「ちょっ、ちょっと奥さん。雅樹くんを返すって何のことでしょう」
とまどう彼に、薫は雅樹が夏海のために休学すること、最期までそばにいたいと言ってきかないことを話した。
みるみるうちに克彦の顔が険しくなる。
「お宅の夏海ちゃんは天宮くんと恋人同士だったんでしょ?なのに、なぜ今になってうちの雅樹を頼るんですか」
「落ち着いてください。雅樹くんが休学したというのは今初めて聞いたことです…今回の帰省もリフレッシュするためだと聞いていました」
「違います!何もかもお宅の夏海ちゃんのためにですよ!」
薫の興奮は徐々に高まってゆく。
克彦も「それは…」と言ったきり、返す言葉も見つからない。