「愛してる」、その続きを君に


今からだと家に着くのは7時半を過ぎちゃうな、と考えながら、そのボックスシートに近付いた時だった。


吸った息を吐くことすら忘れてしまうほどの驚きが彼女を襲い、全身を硬直させた。


信ちゃん…


見えなかった。


思いもしなかった。


今から座ろうとする席の向かいに先客がいたなんて。


そんなに浅く座ってるから向こうからは見えなかったの、と彼女は必死に口からは出てこない言い訳をする。


そこには、窓の桟に肘をつき、電車の進行方向に顔を向けた信太郎が座っていたのだ。


目を細めて、灰色に滲んだビルをじっと見ている。


背もたれにどっかりともたれているせいか、長い足が向かい側の座席の下にまで伸びていた。


誰かが自分の前に座ろうとする気配を感じたのか、信太郎は「あ、すみません」と言って、足を引っ込め、座り直すついでに顔をあげた。


中腰のまま、彼の動きも止まる。


「ナツ…」


思わず漏れてしまった、そんな感じの彼の声だった。


我に返った夏海は咄嗟に身を翻し、時折揺れる車内を慌てながら、乗ってきたドアの近くまで戻った。


とにかく彼から離れたかった。


胸が締め上げられ、苦しくて仕方なかったのだ。


ドア近くの手すりを強く握りしめると、彼女は信太郎のいる方向へ背を向ける。


話しかけるなら今なのに、今しかないのに。


わかっていても、握りしめた手すりから指が離れない。


喉の奥が熱くなり、焼けるように痛んだ。


夏海は心を落ち着かせようと瞳を閉じるが、つっかえたような胸の感覚と喉の痛みはしばらく続いた。
< 84 / 351 >

この作品をシェア

pagetop