「愛してる」、その続きを君に
今からだと家に着くのは7時半を過ぎちゃうな、と考えながら、そのボックスシートに近付いた時だった。
吸った息を吐くことすら忘れてしまうほどの驚きが彼女を襲い、全身を硬直させた。
信ちゃん…
見えなかった。
思いもしなかった。
今から座ろうとする席の向かいに先客がいたなんて。
そんなに浅く座ってるから向こうからは見えなかったの、と彼女は必死に口からは出てこない言い訳をする。
そこには、窓の桟に肘をつき、電車の進行方向に顔を向けた信太郎が座っていたのだ。
目を細めて、灰色に滲んだビルをじっと見ている。
背もたれにどっかりともたれているせいか、長い足が向かい側の座席の下にまで伸びていた。
誰かが自分の前に座ろうとする気配を感じたのか、信太郎は「あ、すみません」と言って、足を引っ込め、座り直すついでに顔をあげた。
中腰のまま、彼の動きも止まる。
「ナツ…」
思わず漏れてしまった、そんな感じの彼の声だった。
我に返った夏海は咄嗟に身を翻し、時折揺れる車内を慌てながら、乗ってきたドアの近くまで戻った。
とにかく彼から離れたかった。
胸が締め上げられ、苦しくて仕方なかったのだ。
ドア近くの手すりを強く握りしめると、彼女は信太郎のいる方向へ背を向ける。
話しかけるなら今なのに、今しかないのに。
わかっていても、握りしめた手すりから指が離れない。
喉の奥が熱くなり、焼けるように痛んだ。
夏海は心を落ち着かせようと瞳を閉じるが、つっかえたような胸の感覚と喉の痛みはしばらく続いた。