crocus

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11時に開店したクロッカス。

厨房から全体を見渡すことは出来ないが、見知った常連客でそこそこ席が埋まっていた。

フライパンを振り、ソースとパスタ麺を絡ませていると、ジュージューと熱せられる音を突き抜け、高音のドアベルの音色が耳に届いた。

この時間帯なら理容室を営む横川さんが、また奥さんの目を掻い潜って油を売りにきたのかもしれない。

「──困ります。こういったことは事前に言っていただかないと……」

出来上がったトマトパスタを盛りつけた皿を持って、カウンターに運ぶと珍しく要の困惑した声が聞こえた。

何事かと、声が聞こえた入り口の方へ視線を向けた恵介は、要の背中越しに見えた女性の姿に驚倒した。

突然のことに体が硬直してしまい、持っていた皿が手からするりと滑り落ちた。その様子を見ているしか出来ず、床に触れた皿は一瞬でひび割れ、パスタは見事に散乱した。

拾い上げたいが、恵介の意識は今の音で正面にいる女性に自分の存在がバレたかもしれないという焦りで頭がいっぱいだった。

「……けい?」

予想通りな上に、彼女の一言で他人の空似かもしれないという可能性も打ち砕かれた。

これ以上ないほど凄まじい速さで鼓動が早鐘を打つ。それゆえに体は汗ばむくせに、どこか冷たい。

恵介の名前を親しく『けい』と呼ぶのも、その声も過去の記憶の中で該当するのは……ただ1人。

恵介は思い浮かべる最後に見た女性の顔を浮かべながら、観念して女性を見た。長い時は経っているものの、やはり同一人物のようだ。


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