crocus
兎に角、転がったままの白い箱に駆け寄り、付着した砂を払いながら拾い上げた。包装紙は所々で穴が開いたり、破れてしまっていた。
そんな箱の状態と、真摯に頭を下げていた未久さんの姿が重なる。託された思いをどうすれば橘さんに余すことなく伝えられるだろう。
悩みに悩んだ末に、若葉は口止めされていた事情を話した。後で咎められようと、箱を受け取ってもらえずに、未久さんの覚悟を無下にするわけにはいかなかった。
「未久さんは今でもジャーナリストとして第一線で活躍しています。そして今度また、他国間の紛争地域の取材に行かれるそうです。同情を呼んでるわけじゃないです。このことは言わないでと未久さんは言っていました。私の勝手な判断です。…橘さんには後悔で苦しんでほしくないからっ!このままでいいんですか?橘さんがシェフになったのは…」
「五月蝿いなぁ」
他人事のように何の感情も籠っていない凍てついた響きが、肩をビクつかせた若葉に呼吸を忘れさせた。
頭を荒く掻き乱す橘さんからは、細かく呼気を吐き出す音が聞こえ、若干の嘲笑が浮かんでいる。目は虚ろで、街灯の光が怒りの灯火のように怪しく揺らめく。
完全に橘さんの逆鱗に触れたことが分かった若葉は、フレンチナイフが入った箱を今一度大事に抱え、橘さんの怒りをわざと買うように思う節を言葉にした。
「橘さんがシェフになったのは、未久さんとの約束を忘れていなかったからですよね?」
「…いい加減にしなよ」
「今だって…本当は未久さんのことを大事に思っていますよね?未久さんからもらった砂時計を大切にしてるのが、その証拠です!」
「…そう。じゃあ、見ててよ」
橘さんは灰色のスウェットから、緑色の砂が入った砂時計を見せつけるように取り出した。そして靴を歩道に気だるそうに擦りながら歩き、すぐ近くに架かる橋の中腹で足を止めた。
若葉がまさかと思った時にはすでに遅く、橘さんは醒めた表情を崩すことなく、右手をヒュッと軽く振った。
橘さんの手から離れた砂時計は、月の光を浴びて煌めきながら落ちていく。まるで儚い流れ星のよう。