crocus
「わー!千春ちゃーん!!僕のこと捨てないでぇー?君、即効帰ってよしっ!」
半ベソかきながら、女の人の腰を抱き締めた男は、真顔で伊織に帰宅令を出した。
なんてめんどくさい人だ。
奥さんと思われる女の人はフッと表情を和らげたかと思えば、持っていた鍋を抱きついている男の頭に躊躇わずに乗せた。
「あっつ!!!」
「お客様にそんな態度を取るからです。ごめんなさいね、気にしないでね?えと……」
頭を抱える男を母親のようにたしなめた彼女は、伊織に向かって謝ると言葉を濁した。
「あ、伊織です。遠坂伊織」
「まぁ、名前まで綺麗なのね。私は水瀬千春です。こちらは主人の悠一さん。それから娘の若葉です。若葉、何歳だったかな?」
受け答えを試された若葉ちゃんは、絵本から視線を外すと指で表現しながら元気よく答えた。
「若葉は3歳!もうすぐ4歳!」
「偉いぞぉ!若葉!」
もう既に復活していた悠一さんという人は、若葉ちゃんの頬に愛しそうに頬擦りをした。奥さんも娘も溺愛していることが、この数分でよく理解出来た。
「自己紹介も終わったところで、さ、食べましょ?今日はすき焼きよ!伊織くんも座って座って」
「え、俺は…」
いいです、と言い終えると同時に漂うすき焼きの醤油の匂いが鼻を掠め、お腹が可愛くない音で鳴いた。
体は正直だ。
恥ずかしさから顔を上げられずにいると、若葉ちゃんがいつの間にか目の前にあった椅子を引いて、座るようにと促してくれる。
思わず怯んでしまうほど、濡れたガラス玉のような期待の眼差しに見つめられてしまえば、ノーとは言えなかった。
肉ばっかりをつつく悠一さん、それを叱りながら若葉ちゃんの取り皿にミニすき焼きを作る千春さん、何度も伊織に「あーん」と食べさせてくれる若葉ちゃん。
「…ふっ、……っ」
「おにいちゃん、どうしたの?痛いの?泣かないでぇ?」
若葉ちゃんまで泣き出しそうな顔をしながら、「痛いの、痛いのパパに飛んでいけぇ~」と唱えながら頭を撫でてくれた。
悠一さんも痛がるフリを熱演している。
水瀬家との夕飯は、自分が分からず家出やケンカを繰り返していた伊織にとって、何故だか涙が止まらなくなるほど、温かい空間だった。