煙草屋の角
「その……転勤になる前にひとつだけ、言い残してる事、あんだけどさ」
 キョトンとした上目遣いに息が詰まりそうだ。
「その、俺と付き合って、貰えないかなぁ、なんてさ」
 やっちゃったよ。しかも直球だよ。
「あの、なんていうか、その、キィちゃんの笑顔、ずっと見てられたらな、なんて……」
「あ……ごめん。その……今、好きな人がいて」
 ああっ!
「別に、付き合ってる訳じゃないんだけどね、うん……あ。でも、嬉しいよ。とっても」
「ハハ」
「その、前はあなたの事、いいかなって思ってたけど」
 痛い。
「ご、ごめんね。でも、ありがとう。ほんとに」
 よく喋る。だが既に彼女の言葉はほとんど耳には届かない。僕はただ板の間の木目を見つめていた。
「そっか。ハハ…………少し、小降りになってきたみたいだな。今のうち帰るか」
「あ、そこの傘持ってって」
 傘を開けば桔梗模様。恥ずかしいくらいのオバチャン傘だ。しかし傘の柄には微かな温もり。
「あ、でも、また来てくださいね」
 来る機会なんて無いだろう。それ以前に、気まずくて来れないと思う。
「あ、ちょっと待って」
 雨が傘を叩いた時、突然彼女が僕を引き止た。
「最後に、握手!」
 ギュッ♪
 少し湿った小さな温もりが僕の心にとどめを刺した。
 思い出したかのような薄暮が、濡れたビルを、アスファルトを照らす中、僕はまだ止まぬ小雨に向かって駆け出した。逃げ出すように。なぜだろう、笑いが込み上げて来て止まらない。色んな感情が溢れ出して、それを覆ってしまわんばかり狂ったように笑う。
 別れる間際。いつも人々を和ませていた彼女の微笑が消え、その目が少し潤んでた事に僕は気づいた。それを見て僕はひどく後悔している。最後にこんな爆弾落として行くなんて。彼女を傷つけてしまったかも知れないと。しかし、言わずに去ってもきっと僕は後悔しただろう。

 だけど今は、滲む涙を雨で誤魔化しながら、笑って走るしかないのだ。



―了―
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