絡む指 強引な誘い 背には壁 Ⅰ 
 香月は榊久司の姿を目をこらして必死に探した。
 かつて、彼は香月の恋人であった。大学一年の18歳のとき、友人の主治医が彼であった。その友人の軽い風邪の見舞いに行ったとき、初めて知り合ったのである。
 香月の一目惚れであった。その時、榊は29歳、独身。香月の一方的な強い押しでどうにか2人は付き合い始めることができた。初めての大人の付き合い。香月は榊の手の上で簡単に踊った。見事に舞った。煌びやかに、艶やかに。見事に中心をとらえる、駒のように、くるくるくると。
 だが、それは突然だった。駒のような、時間切れで訪れたものではなかった。
「医院長の娘を、妊娠させた」
 その、たった一言で終わった。
 全てが、切り捨てられたのである。
 友人は医師に真意を但し、罵倒したそうだが、そんなことは何の役にも立たなかった。
 しばらく大学には行かなかった。
 だけど、今考えれば、それだけのことである。しばらく大学に行かなかったからといって、何かに影響したわけではない。
 彼はすぐに妊娠した院長の娘と結婚をした。その後のことは知らないが、10か月経って子をもうけただろう。
 その彼が、今先ほど、会いたいと……そのようなことを言った。
 彼は、不倫などしない。そのような男ではない。
 微かな希望は勝手に確信へと変わっていく。
 彼は、妻と離婚をし、妻は子を連れて家を出た。
 それだけの妻だったである。榊はきっと、それに振り回されただけのこと。
 ほら、だから……。
 こんなに人がいても、あんなに遠くても、彼の居場所が分かる。
 やはり、一人。周囲に人はいるが、男性だけ。
 今度こそ。
 香月はゆっくりと、落ち着いて近づく。
 多分きっと……
「見違えたよ」
 そう、言うと思った。
「そう?」
「ドレスがよく似合ってる」
 香月は頬を赤らめて下を向いた。
「今は? 学生?」
「もう25よ」
「いや、院生かと聞いている」
「いいえ」
「勉強熱心だったからてっきり院生になったと思った」
「……そうね……」
「マーケティングの方へ?」
「ホームエレクトロニクスよ。家電販売」
「へえ、ちょっと驚いたな……」
「嘘、結構驚いてるじゃない(笑)」
 2人はしばし笑う。
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