絡む指 強引な誘い 背には壁 Ⅰ 
 よく子機を落とさなかったものだと思う。
「今すぐ出て来い。駐車場の端の車、マークxの白で待ってる」
 電話はすぐに切れた。だが、動悸と冷や汗で眩暈がしそうだった。
「宮下副店長?」
 微動だにしないのを不審に思った従業員が声をかけてくる。
「ちょっと……気分が悪い。すみません、宮下、休憩入ります」
 時刻は何時だっただろう?
 その時、どんな仕事をしていただろう?
何も考える余裕がなかった。ただ、今店の駐車場に、吉田千賀子の夫と名乗る者が来ているということで頭が一杯であった。
 最悪、やくざで脅される、ということを覚悟する暇もなく、すぐにトランシーバーを外し、走る。後のことはどうにでもなると思った。
 マークxは屋内駐車場の一番隅で停車していた。
 そこまで全速力で走り、運転席のサイドウィンドを覗き込んだ。
「……助手席乗って」
 メガネをかけたスーツの男は、サラリーマン風だった。ただ、とてつもなく怒っているということは、充分に伝わった。
「……失礼します」
 中に乗ると、初めて後部座席に女がいることがわかる。女はこちらをみようともせず、ただ、顔を俯かせ、黙っていた。
「知らなかったんだって? 結婚していることを」
 本題から入ったので少し安心する。
「はい……。全く」
「おかしいとは思っていたんだ。だから人手を借りて調べたんだよ。そしたら、よくもまあ毎回ホテルに入っていくわ……。
 千賀子は、俺と離婚する気はないと言っている。
 俺も離婚はする気はない。
 これで懲りただろう。子供もいるのに、よく平気だったな」
 夫は後部座席をちらと見た。
「まあ、あんたは何も知らなかったようだから、千賀子にも非がある。それは分かっているが、もう会わないと、誓約書にサインを書け」
 見せられた白い一枚の紙には、長々と活字が並んでいた。
「……」
「嫌か?
 あんたも少なからず失望しただろう、好んでいた相手が結婚していて、しかも子供もいるなんて」
「驚く……ばかりで……」
「書けない?」
「……いえ……書きます。人様のものを横取りする気はありません」 
 気持ちは全く整理がついていなかったが、今は一番正統だと思える、その言葉を並べた。
「……聞くが、本当に1カ月前からの関係なのか?」
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