絡む指 強引な誘い 背には壁 Ⅰ 
「……はい」
 相手が用意したファイルを下敷きにし、何も読んでいない白い紙をその上置く。自前のボールペンで、名前をゆっくりと書くふりをしながら、言葉の意味を少し考えた。
「万が一妊娠していたら、惰ろす」
「……」
「費用がどうのと言ってるわけじゃない。もうその権利はないと思え」
「……はい」
「ご……めんなさ……」
 後ろから聞こえる泣き声が、今は鬱陶しくて仕方ない。
「謝るくらいなら最初からするな」
 夫の叱る声が車内に響いたが、最もな意見である。
 車から降りた後も、店に戻ってからも、その日一日終わってからも、何も手につかなかった。
 女が酷いとは思わない。見破れなかった自分が悪いとも思わない。
 ただ、空いた穴が青いままで……。
 どう閉じればよいかもわからなかった。
 そんな中でももちろん仕事は続けた。がむしゃらに働いた。今、できることは、そのくらいしかなかった。
 しばらくしてから、万が一間違えてかけないように、と女の携帯番号を削除した。
 番号は宙で言えるくらい覚えていた。
 だが、さすがにかけようとはもう思わなかった。
「ところで、彼女は?」
 それから3ヶ月ほどして、海外出張から帰ってきた坂野咲と食事に言ったとき、久しぶりにその話題に触れられて、真相の全てをゆっくり話した。
 結婚しようと思う人がいると話していたことを、さすがに忘れはしないだろう。
「結婚してたよ……。しかも子供までいた」
「結婚? 人妻?」
「……あぁ……」
 坂野崎は確か、焼き鳥を頬張っていたと思う。
「子供までいたって? 連れ子?」
「……さぁ……」
「女は子供産むと胸が柔らかくなるんだよ。しこりがない」
 暗い俺を吹き飛ばすように、得意気な顔で、奴は笑う。
「え……あ、確かにそうだった。個人差じゃないのか……」
「経験不足だよ。そこは隠せるものじゃない。ま、その関係が続いたのは偶然だろうな。相手の方がびっくりしてたかも」
「……」
 大きな溜息が出る。
「勉強できたじゃないか。無賃で。慰謝料請求されなかったんだ。もうけもんだよ」
 何を儲けたのか自分ではよくわからなかったが、
「まあな……」
「いい女なんてたくさんいるさ」
「いやいない」
「(笑)、そうか? 俺はいい女を見る度に結婚したくなるからなぁ。もしかしたらこの女が自分を幸せにしてくれるかもしれない! って」
「ふーん」
「だけど自分が幸せにしてやろうと思う相手じゃない」
「俺は……彼女を幸せにしてやれると思った」
「あそう……。まあ、このままその女以上の女が現れなかったら、いつか奪えばいいさ」
「できるか」
「それくらい好きだったらの、話」
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