絡む指 強引な誘い 背には壁 Ⅰ 
 真籐司は、ホームエレクトロニクス本社が入った中央ビルの52階から下界を眺めながらぼんやりと考えていた。
 香月愛……のことを。
 彼女のことは、彼女が入社してきたときから知っていた。その時彼女はまだアルバイトの身分だった自分を知ることはなかっただろうが、いつかその目に必ず止めてやると、強く見つめたのを覚えている。
 その年の新入社員で、一番最初に覚えた人であった。その理由は簡単、一番の美人だったからである。少し余裕があるリクルートスーツに包まれ、髪をきちんと結い、大きな瞳は静かに伏せ、赤い唇をきゅっと結んで店内を皆と回る姿は、見事に周りの目をとらえていた。つるりとした肌は誰よりも白く、また、少し緊張していると思われるその表情がとても初々しい女性。
 多分、あの時彼女のことを覚えた社員は大勢いただろう。そして、月島店という最小店舗に配属になったことを嘆いた男性社員は大勢いたことだろう。
 更に自らも入社してからは、月島店への移動配属を願った。ここしばらくも移動がある度に彼女が本社に配属になることを密かに願ってきたが、未だかつて一度も叶えられたことはない。
 当然、彼女と直接話しをする機会は皆無であった。業務の一部で一覧表の中で名前を見たり、個人名でファックスを流したことはあったが、いずれもその程度で、それ以上のことはただの期待に終わっていた。
 もともと、口下手な方である。
 接客となると少しはマシになるのだが、プライベートとなるとそうもいかない。
「お前は接客に向いてないから、経営学の方にしたらどうだ?」
 親父の目は正しい。
 アルバイトで高校一年の時からとりあえず接客や倉庫、修理など一通りのことはしてきたが、向いているとはそれほど自分でも思っていなかったので、その父の言葉を信じ、経営学の方に逃げた。
 逃げたという表現は正しい。
 その道でプロを極めるなら、相当な試練が必要だと思う。それが、経営というもうひとつの道が開かれたことで、救われた気がした。才能と素質が方向性にあっていることで、努力が報われる、そんな気がした。
 本社の人事に配属になったことで、経営も向いていなかったのかと気は落ちた。だが、それでも、ここはここで自分に合っているのだと信じている。
 ちなみに、エレクトロニクスに入れと親父に言われたことは一度もない。
 ただ、その親父の何事にも対する前向きな考え方が昔からとても好きだった。そしてそれはエレクトロニクスの社長の教えだと知ったとき、その会社で、自分も働こうと決めたのだ。
 親父はそれを、他人事のように扱う。
 だがそれでいいと思った。もともと親父のコネを使ったわけでもなんでもない。そんなこと、少しも思わなかった。ただ、実力には自信があったし、常に努力を信じて今までやってきただけだ。
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