絡む指 強引な誘い 背には壁 Ⅰ 
「……えーと……」
「何?」
「なんだったっけ……」
「え? 何も言ってないよ(笑)」
「そう?」
「うん」
「あー……、タバコ、一ヶ月ぶりなんだ。なんか眩暈がしてな……」
「えー? もうやめたら?」
「うん、今ちょっと思った(笑)」
「タバコなんてよくないわよ、あれよ、医者の不養生」
「死にたいわけじゃないけどな」
「あぁいう医療の現場にいるとさ。命の大切さとかどう?」
「うーん、まあ、最初から……親が医者だったし自分も早くからその道に行きたいと思ってたから、これといった革新劇はかなかったけど。ただ、みんな自然に命は大切だと思ってるよ。どんなに出血しても、ある程度は勝手に止血していくからね」
「へえー……」
 彼女がうっとりとした表情を見せたことにどきりとし、煙草のことを一瞬忘れて少し灰が落ちた。テーブルの下に灰皿があることをようやく思い出して、長くなった灰を落とす。
「すごいよね、お医者さんって。なくてはならない人じゃない」
「そうでもないよ」
「そう? 私の仕事なんかそんな感謝されるようなこともないから、お医者さんって素敵って思うわ。本当に意味のある仕事って感じで」
「意味のない仕事なんてないさ」
 言いながら、自分の仕事はどれほどの意味があるんだろうと考える。
「そうかなあ。私なんて、毎日品出しして、商品決めて、レジして。雑用係りよ、早く言えば」
「雑用こそできることじゃない。大変な仕事だよ」
「そう言ってくれると嬉しい。自分でもそう思って頑張ってるから」
 彼女はにっこりと笑顔で笑う。その一瞬を、カメラのレンズに収めることができたら、どんなにすばらしいだろうか。
「明日……帰れるかな」
 突然の話題転換とその内容に驚くが、ちゃんとついていかなければ話しが続かない。
「帰れない理由は?」
「帰りたくなくなったらどうしよう」
「上司と約束したんだろ? 帰るって」
「そうだけどね。そうなのよね……」
「ちゃんと帰って、頑張って仕事した方がいい。いつまでもロンドンにいても何もならないよ」
 それが、悪く聞こえていなかったか、すぐ彼女の反応を見る。
「そうだね。ここにいて、英語喋れるようになっても、仕方ないわね……。私、日本でしか生活できないだろうし」
「そんなことはないと思うけど、今の仕事を大切にした方がいい。せっかく頑張ってるんなら」
「うん……」
「明日、11時の便で必ず日本に帰るんだぞ」
「やっぱり午後のにしようか……」
「午後って何時?」
「2時くらい」
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