絡む指 強引な誘い 背には壁 Ⅰ 
 何故このタイミングでこちらを向く……。
「嫌というか……明日の朝、自転車がないのに困ります」
「それもそうか」
「だから、今日はいいです」
「いつか……送っていけるように……」
 さすがに視線を逸らした。あまりにも重い、視線。
「……失礼します。お疲れ様でした」
「ああ。お疲れ。気をつけて帰れよ」
「はい」
 とりあえず返事をして、さっと車から降りると駐輪場まで走った。
自転車にまたがるときも、ハンドルを握っているときも、前がよく見えなかった。
 視界がぼやけている。
 暗い中、危ないと思った。だけど、一刻も早くそこから、逃げ出したかった。
 そして誰かに相談したかった。この、不快な苦しみを、誰かにわかってほしかった。全くもって不愉快だった。自分の勝手で離婚をしておきながら、その原因を自分に擦り付けられたかのような、そんな感じがした。 
「お疲れ様です、香月です。あの……すみません、今お時間よろしいでしょうか?」
 香月は自宅に帰ってすぐ、食事もせずに自室に入ると宮下に電話をかけた。以前本社に電話をした時、宮下の携帯番号を教えられたことがあって、それをメモリーしておいたもがまだ残っていたのだった。
 午後10時。大型店はまだ勤務時間内だ。つまり、本社もまだ起動していると思われる。
「ああ! はい。ちょっと待って……」
 何かガサガサ音がして、バックの音が消えた。ちゃんと話を聞いてくれるのだと安心する。休みだったのか、自宅だろうか。テレビを消したようである。
「何? どうかした?」
「あの……私、どうしたらいいか……」
「佐藤店長のこと?」
「私、全然知りませんでした……」
「知らなかった、とは?」
「……、私と佐藤店長は本当に、そういう関係ではないんです。だから、私、この前宮下さんにそう言われて、気になって……さっき佐藤店長と話をしたんです。2人きりで」
「うん」
「奥様とは離婚するつもりだって、私のことを待っているって」
「そう言われたのか?」
「……あの、これは……直訴しているわけではなくて、ただ……本当に……」
「うん、分かってる」
 セクハラで訴えたいわけではない。
「……。私……ショックでした。なんか……私のことをそういう目で見ていたなんて……。だから離婚するなんて……。だから、離婚しないで下さいって頼みました」
「うん、そしたら?」
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