絡む指 強引な誘い 背には壁 Ⅰ 
「いや、体調いいなら別に構わないけど。危ないから、ちゃんと宮下店長に送ってもらってね」
「じゃあ、もう帰ります。その前にトイレに行ってもいいですか? 喉も渇いた……」
「トイレは詰め所の隣。そこの廊下出ればすぐに分かるよ。歩ける? 宮下、お茶かなんか買ってきて」
「あぁ」
 香月がゆっくりベッドから降りようとすると、坂野咲は当然のように部屋の隅から車椅子を持ってきた。
「座れる?」
「え、歩けると思いますけど……」
「一応ね。ふらつくと危ないから」
 香月は素直に従い、恐る恐る腰掛けていく。
 奴はそのまま押して行った。こうやって見るとちゃんとした医者だ。いや、こんな大病院で担当を持っているのだから、そもそもちゃんとした医者ではあるのだが。プライベートを知っているのでついつい自分好みの患者を口説いたりしないのかと心配なのである。
 5分ほどしてすぐに笑い声とともに2人は戻ってくる。
「……だよ。今度宮下店長に連れて行ってもらえばいいよ」
 香月は意味ありげにこちらを見てから、「はい」と笑った。
「どこへ?」
「駅前の串屋」
「あぁ。元気になったらな……。お茶でよかったか? ポカリと迷ったんだが」
「あ、はい」
 奴は彼女を慣れた手つきでベッドへ移す。
 そして、ベッドの脇に腰掛けた、彼女の視線まで下がり、
「……」
 無言で、少し顔にかかっている髪の毛を耳にかけてやっているのを見て、
「……先生、それは治療の一環ですか?」。
「ええ、そうです」 
 お医者様は、付き添いの苦言を物ともせずに偉そうに立ち上がった。
「香月さん、綺麗な髪の毛ですね」
 なぜか香月も赤面しているし。
「……なんだ? 宮下店長」
 坂野咲のにやにやした顔がこちらを向いているが、無視無視。
「じゃぁ、俺は、そろそろ下りないと」
 腕時計を確認している姿が、白衣と実にマッチしている。
「あれ、時計変えた?」
「あぁ、自分へのご褒美にね」
 嘘つけ……どうせまた彼女かなんかからもらったプレゼントだろ……。
「ナースに言っておくから」
「分かった。ありがとうな」
「香月さん、もう大丈夫ですよ」
 坂野咲はくるりと向き直ると、また医者に戻る。
「先生、ありがとうございました」
「うん、お大事に」
 奴は優しい顔をして、また無意味に髪を触る。しかし、香月は満足そうだ。
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