Alien執筆言い訳日記(ブログ的な何か)
5月26日 本屋病
“本屋病”は19歳で全てが無意味だと知った時から罹患したある病症だ。
“必要な本などこの世には無い”
本が大好きだった。子供の頃から同年代の理解者に疎遠だった私は、本が友人のようなものだった。ちいさいころは幼馴染もいたし、よく遊びもした。だが、小学校の3年と4年は、まるで吹きすさぶような乾いた不毛の地のようだった。思い出す印象は、誰とも噛み合わない冗談のようなねじれの位置と砂の味だ。紛れ込んだ児童館の先輩たちになぜか「ゴキブリ」というありがたい蔑称を付けられ、居場所が無いので、そう呼ばれながらもそこに居たこともある。結局は近所の図書館のソファと窓ガラスの間の秘密の場所に居場所を作り、顔なじみになった図書館員さんに「閉めるよ」と言われるまでそこにいる毎日となった。
一冊の本も手のひらの上に残らないのかと思えば思うほど、吸い込まれるように本屋に入ってしまう。そこにいけば絶望を再認識するだけとわかっていても、不毛を紛らわすものがどこかにあるはずだという一縷の望みが私をそこに駆り立てる。どうせ、また本棚の間に立ち尽くしたまま、身体が硬直して動かなくなったまま時間をやり過ごすだけなのだ。
ある時から本屋病は詩人によって寛解していった。アルチュール・ランボーの『地獄の季節』を皮切りとして、吉本隆明の『固有時との対話』、榊原淳子の『世紀末オーガズム』…実存の虚無が詩として歌われていることが、奇跡のように思った。そして、その時読んだ詩の中にはそれを超えていくすべは語られてはいなかった。私には信念のようなものがあって、これもまた何かのプロセスの通過点に過ぎない、という自己に対する予言のようなものであった。そして私は予言通り砂漠の中で、それを超えていく情報を得ることになる。
さて、超えてみた場所で本屋病はめでたく再発した。読むべき本がない。砂の味を忘れたわけではない。だがそれを忘れるために本を読むということを必要としない自分が居る。身体が硬直することもなく、絶望などを認識することもないから、本屋病というものではもう無いのかも知れない。私が此処で詩やら小説を書き散らしているのは、読むことと書くことが裏返ったからだ。読むものが無いなら書けばいい。ただのナルシシズムだろうか?…多分そんなもんだろう。そんな御大層な理由じゃない。まだ書ける。書く欲動力。それがいつまで続くか、その終わりを待っているだけかも知れない。
今日ブックオフに行ってそんなことを思いながら本棚の間をウロウロしていた。しかしいい加減なもんで、19歳の時から、漫画だけは本屋病の限りではない。秋里和国の古いのを1冊立ち読みした。『JAZZ-TANGO』。私もそんなことして生きてきたなって、懐かしく思うストーリーだったな。