Alien執筆言い訳日記(ブログ的な何か)
7月30日 佐世保高1の子とタリウム少女
佐世保でまた10代の殺人事件。
例のNEVADAたんの事件と似てると言われているが、私はタリウム母親毒殺未遂事件の彼女を思い出す。二人共に、薬物と小動物の解剖、それに「僕」と自分を呼ぶ。こういう人物は昔は男子だけだった。今は性差がなくなってきて、僕っ子の女子もこんなふうに自分の中の“生”を厭い、死を希求する。作品を見て頂いてお分かりの通り、自分にもそんな傾向はかなりあるから、この事件のなにかを理解できる気もしないではない。見ての通りの変態で暗闇の住人だが、私にとって人の死は自分の死と同じに感じる。だから、身内に虐待されようが、他人に過激に虐められようが、そのつながりを失わなかったのはひとえに両親の(それなりに変人ではあるが)まっとうな愛情のおかげだと、いまなら思える。それは親の人生なりに色々と歪んではいたが、その歪みが他者との融合感を決定的に阻害することはなかったからだ。
とはいうものの、この問題には親と子の共感の問題が基底に有るように思う。親が果たしてこの子供らの感覚や思考の受け手になり得ていたか? この問題は大変に根深く、今の世の中に蔓延している。ここで子供はまず最初に、衝撃的な孤独感に打ちのめされる。そして親を自分の感情の外に切り離す。なぜなら、その人たちに、いちばん理解されたかったからである。理解されないなら、意識の外に追い出す。そうしないと、自分の孤立感を感じながら生きていかなくてはならないからだ。それはひどい苦痛である。
人を殺す人は、自分の心が死にかけてる。なぜそうなったかは人それぞれだろうが、自分と世界は相似形なのだ。私の心が死にかけた時、他人の幸せを願う心と、すべてが虚無に打ちのめされれば良い、という気持ちがないまぜになっていた。衝動的に他人を破滅に追い込み、自分も砕けたあとで、自分のしたことに慚愧の念でのたうち回ることの繰り返し。
考えてみれば、絶望感が発作のように襲ってくる時、そこに破壊の衝動が突発的にやってくる。思えば酒鬼薔薇も今回の“高1少女”も祖母や母親の死がキッカケになった感じがする。心理学の本で『知覚の呪縛』渡辺哲夫・著という本があって、ここでも、この本の主役の精神障害の女性に起きた知覚や認識のゲシュタルトの崩壊、ひいては日常世界の喪失が、母親の死をキッカケに起きていることが書いてある。自分の日常を支えていた家族の死は、自分の日常を奪っていく。それは、居場所や、安らぎや、なんてこと無い日常という地面にも似た安定を失うことと同じだ。
自分の中の崩壊を外に表出する。誰かにそれをわかってほしい、という気持ちをなんとなく感じる。多分自分ですらその崩壊の苛酷さはわかっていない。わかっていたら、このような殺人にはならないと思われる。殺人を冒すだけの自己との乖離は、喪失と絶望の深さと、家族との共感の欠落になんらか起因するように思う。