Alien執筆言い訳日記(ブログ的な何か)
12月10日 熱狂とネガティヴ
『実存は本質に先立つと、かの思想家の喝破したように、人生が意味を持たないことをどうやら人は魂の奥底で知っているから、空虚な人生の中で自分を何かに縛り付けておくために、人は熱狂を選ぶ。曰く、恋、信仰、精神世界、政治活動、趣味、ドラッグ、学問、創作…集中して打ち込んでいる時の忘却作用が一時の効果を示す。
熱狂を選べないニヒリストはその重石を敢えてネガティヴなものにする。曰く、死や罪、病、狂気、絶望、悲嘆…苦痛の大いなる麻痺作用、新たな痛みと苦悩の生存感、生のリアリティの獲得に、空虚は埋まったように見える。
そうやって人は虚空に自身をアンカーした気になる。熱狂とネガティヴは共に心の大半を占めて、空虚を埋めたような気にさせてくれる。
賢いものは人生の無意味を、論理的なプロセスで、意図せず魂の奥底から意識上にあぶり出す。それ故に、招かれざる客のように、空虚が紛らわされること無く、目の前に居座り続けるという不幸に襲われる。
畢竟それは幸福の始まりなのだが、あまりの破壊力に、それに辿り着くまでの絶望と孤独に耐え切れない。それで、幸福に辿り着くまでの長い時間を不幸と呼ばざるを得ない。
無意味に直面するだけの視野と意志を育てている間、それらの熱狂とネガティヴは揺籃のようなものである。空白の人生を白と黒のグラデーションで染めてくれる。それらに人は自分にとっての意味を見出すからだ。たとえそれが辛く厳しいことだとしても、それ故に人はその苦悩に意味を見出そうとする。人生のリアリティを獲得出来そうな気がする。獲得したリアリティをリアルな言葉で語れそうな気がする。成長と経験を手に入れられる気がする。では何のために人はこの有限の生の中で成長と経験を得たがるのか?
その答えは、成長と経験という鞘の中に、実存という刀を納めるためである。鞘が洗練されていくと同時に、刀は溶け始め、いつしかそれは融合してなくなる。それを待つ果てしない時間の中で、熱狂とネガティヴは魂の揺り籠として希求され続ける。構造主義はその文化的な優劣を解体することでより無意味に接近していくが、それは実存を認識する1つのプロセスに他ならない。その中で体験を魂を主体として統合する手段と方法が先立って語られることがより重要になってくる。それがフーコーの未完の著書『肉の告白』に書かれるはずのことであった…(以下略)』
(『サルトル批判、構造主義、フーコーのパースペクティヴ』 寺岡秀明・著)
…ってか。すんげぇバタイユっぽいな。てかバタイユには傾倒しそうだけどな。絶対サドとジャン・ジュネ読んでハマったんだろうな。で、ポスト構造主義に行き着くと。