Alien執筆言い訳日記(ブログ的な何か)
1月20日 ゲームと2次の相似性について
最近ご存知の通り、2次創作なるものを始めて、ついにある啓示が降りた。
『ゲームと2次は相似である』
私はゲームというものにほとんど興味がない。やるのはテトリスだけだ。うちの旦那は中程度のハマらないゲーマーだが(元TRPGのマスターしてた。PS2が我が家にはある。山ほどブラゲのアカ持っている&麻雀好き)私はそこだけは理解がない。ほとんどのことは互いに理解しあっているが、ゲーマーの心理だけは以前から(旦那に関わらず)全く理解の外だったのだ。
他人が作った遊園地に招かれて「こう遊べ」「ああ遊べ」と言われてもね。リアルの遊園地がそもそも嫌いなのに。遊園地に行くくらいなら缶けりかドロケイして遊ぶわ。絶対面白い。生身で他人が関わるなら面白い。麻雀やトランプなら多少理解は可能だ。だからTRPGならかろうじて価値は分かる。だが、コンシューマーにしろブラゲにしろ、あのステージで独り遊びするくらいなら、推理小説を読む。
長い間そう思っていたのだが。
2次やりはじめて思う。これはゲームだ。他人の作ったキャラをHPや特性に応じてオリジナルから外れきらないようにストーリーの中で高い自由度で動かす。分岐やフラグ設定が自由度が高い。パラレルもありだ。魅力のあるキャラとストーリー設定で、この2次にハマるかハマらないかが分かれる。よっぽど面白くなきゃ「このキャラを動かしてみたい」なんて思わないけど。
そして、面白くても、原作の完成度が高すぎれば、自分の妄想の入る余地などはなくなる。私の傾向として、原作の世界観にほどよく未完成さがあると、つけ入る隙を見いだせる。これが2次創作の自由度にも関係する。これはけっこう無意識な判断かも知れない。ようやくこの傾向が意識上に上がってきたところだ。
ゲームにハマる人も、好きなものの傾向はある。うちの旦那は男の子なので、銃火器類、格闘技、車、軍事、戦争、ファンタジーなんかが好きなんで、勢いそういうものばかりやってる。私の好みは歴史、衆道、宗教、真理、心理、暗黒性なんで、黒執事とかベルセルクとか青エクにハマっているわけだ。
だが、黒執事もベルセルクも、世界観の構築度が高く、食指が動かない。前にも言ったが、青エクは意外なことに「カトリック、キリスト教の世界観」をほとんど書いていない。ほぼ信仰や聖書のことには触れない。聖書は致死節のカタログに過ぎない。ここにおいて、私はつけ入る隙を見出す。雪燐と新約の本質の悪魔的な融合を目論んでいる(←壮大すぎる…でもやる)。けっ。結局失われた物語と変わんないじゃん。多少自嘲気味。
2次もゲームも、人が作った舞台の上で遊んでいるに他ならない。今回そこにハマってゲー廃になったりするのがちょっとわかったりもした。時間が少しでもあれば、家事もそこそこに、ずーっと2次小説をかき続けちゃってたりする。オリジナルではここまではしない。作家で食っているならそうしなきゃならないだろうが、オリジナルはそこまでサクサク進まない。全部自力で行かなければならないからだ。そこいくと2次はエンジンもナビゲーションもある。インフラがある程度整っているから、ここまでサクサク書けるのだ。そのスピード感はたまらんものがある。アイデアひとつにしても、ベースができている分、組み上げが早いし豊富に出てくる。ちょとした中毒性があるね。ゲー廃ならぬ「2次廃」になれる。
オリジナル執筆の息抜き程度にやるのがいいと思いました(笑)