白日夢
しばらくの間、コンクリートの塀に寄りかかって休んでいると、着物をきた女性が一人、坂を下ってくるのが見えた。坂の上には田口探偵事務所とさえない主人のいるしょぼくれた床屋ししかないので陣は少々奇妙に思った。若い女性が行く所ではない。けれどもそれは偏見であろうと陣は思い直した。あのしょぼくれた床屋に散髪なんてことはないだろうから、うちの事務所だろう。しかし――と考えて中断した。
「大丈夫ですか?」
 その着物の女性が話し掛けてきたからだ。
「だ、大丈夫です。」
 陣はしどろもどろになって答えた。なんせ最後に女性に話し掛けられたのは三年前まで遡るからだ。いや、角の煙草屋の理沙には今でも話し掛けられる。しかしあのお転婆は女性とは言わないだろう。
「気分でも悪いんですか?」
「いや、ちょっとこの暑さですからね。」
 陣は何とか落ち着きをはらって応じることができた。よく観るとこの女性は誰かに似ていた。陣がまじまじと女を見たせいか、女が声を発した。
「私の顔に何かついてますか?」
 女性は首を少し傾げ、優しげな笑みを浮かべたまま不思議そうに言った。その仕種と表情に陣は見覚えがあった。一昨年現役宣言を引退した女優の神階雅美にそっくりではないか。気のせいかもしれない。
「いや、そんなことはないですよ」と陣はあわてて首を振った。「とてもお美しいです」
「あら、お上手ね」と女性は艶ぽく微笑んだ。
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