白日夢
それから職場に電話して退職の旨を告げた。上司に当たる佐伯は酷く驚いた様子で陣を説得し続けたがそれでも陣の決意は曲げられなかった。結局、佐伯はそれを認めた。その後陣は専門学校の監督コースに進んだものの映画監督にはなれず脚本家に転向し、今に至る。
 陣は神階雅美にたいする考えられるだけの賛辞を述べた。
「でも、私はもう引退した身です。今では一般の方と全く変わりません。」
 北条雅美は嫌味の無い、おっとりとした口調でそれを謙遜した。陣は自分があなたのおかげで自殺を思いとどまった事と心機一転し脚本家になった事を熱っぽく語った。北条雅美は嫌な顔一つせず、時折相槌を打ってそれを聴いていた。
「ああ、すいません。つまらない話をしてしまって。」
 陣は漸く己の非常識さに気がついて、自分の軽率さを呪った。会ったばかりで、自分の話ばかりしてまった、正直いって自分が彼女だったら愛想をつかすに違いない。しかし、北条雅美は首を横に振って言った。
「そんなことありません。とても楽しかったです。久し振りに気が晴れた気がします。」
 陣は胸をなでおろした。社交辞令かも知れないが、怒ってはいないようだ。
「あの、良かったら・・・。」
 陣は言葉に窮した。そこで初めて彼女の薬指に金色のリングがはめられている事に気付いたからだ。結婚していたのか、と陣は頭の中で舌を打った。
「どうかしましたか。」
 北条雅美は、いつかの映画のように微笑んでいった。
「いや、何でもないです。」
それでは、と北条雅美は丁寧にお辞儀をしてから、坂を下って行った。陣は嬉しいような切ないような複雑な気分に陥った。だけれども、気分は軽やかになり、先ほどまで妙に鬱陶しかったこの無限坂の緩慢な道のりが何だか酷く楽に思えた。
そしてこの坂を上り詰め、そのまま一直線に平坦になった道を通り抜け、行き止まりまで行った所が『田口探偵事務所』である。
< 9 / 28 >

この作品をシェア

pagetop