犬と猫…ときどき、君


休憩中、真正面に座ってお昼を食べる胡桃の、頬にかかるまつ毛の影をぼんやり見ながら、

“俺はこんなに遠いのに、今野は簡単に胡桃に触れられるんだな”

なんて、ワケの分からない事まで頭に浮かぶし。


指先からサラリと滑り落ちる髪も、ピッタリと吸い付くような頬も、紅くて小さな唇も。

俺はもう、触れることが出来ないから――……。


「そんなの、前からか」

自嘲的な笑いを漏らしながら時計に視線を向けると、時間は二十一時を少し過ぎたところ。


ちょっと遅いけど、まだ平気か。

放り投げていたカバンを手繰り寄せて、中から携帯を取り出すと、自分の手が緊張で冷たくなっている事に気付いた。


「はぁー……」

引っ張ったってしょうがないんだ。

もう一度息を吐き出して、アドレス帳から呼び出したのは、横山先生の自宅の電話番号。


通話ボタンを押して、耳元で鳴る呼び出し音を聞きならが、どう切り出そうかと考える。

取り合えず今日は会う約束だけして、話は直接しないとな……。


いまいち整理の出来ていない頭の中は、やっぱりまだゴチャゴチャ。

それでも、プツリと途切れた呼び出し音に、心臓の動きが少し速くなった。


「はい、横山です」

「夜分に申し訳ありません……城戸ですけど」

「あら! 城戸君!?」

電話口に出たのは、横山先生の奥さんだった。


「しばらくぶりねー。元気?」

「はい。おかげさまで無駄に元気です」

「相変わらずね」


俺の返事にクスクスと笑う奥さんが、昔と変わらない柔らかい口調で世間話を始めたから、また少しだけ胸が痛くなる。


動物病院の奥さんって、忙しすぎるせいか性格の曲がった人がかなり多いんだけど、横山先生の奥さんは違った。

いつも穏やかで優しくて……。


「あー……何か泣きそ」

横山先生に替わると言って、奥さんが電話を保留にした瞬間、やっぱり胸がしめつけられて、思わずそんな言葉が漏れてしまった。


しばらくして、不意に途切れた保留音。


「城戸君か?」

そのあと、耳元で聞こえた横山先生の声に息が詰まって、すぐに言葉が出てこなくて……。


「どうしたんだ?」

「いえ……あの」


ホント諦めが悪いな。

この期に及んで、まだ何とかしたいとか思ってるなんて。


「横山先生。すみませんが、今度の木曜日、お時間を頂けませんか?」


“賽は投げられた”じゃないけれど。

これでもう、後戻りは出来ない――……。


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