犬と猫…ときどき、君
それから篠崎君は、何度も松元先生のところに行って、契約の取り消しとやり直しをお願いしたらしい。
「その度に“それならキャンセル料と、正規の再契約料を”って言われて、でも俺、そんな金用意できなくて……。そしたらハルキが“そのままでいいから”って」
「……」
「“別にあの女に借りてようが何だろうが、使える機械なら何だっていいだろ”って、笑いながら言って」
その時の春希の表情を思い浮かべるのは簡単だった。
春希は人の心の傷に敏感で、いつだって、それを少しでも和らげられるようにって考えていて……。
まるで相手をからかうみたいな表情をしながら、知らぬ間に重い荷物を一緒に持ってくれる。
自分の負担が増える事なんて気にも留めずに、普段と変わらない様子で、飄々としながら。
「ねぇ、篠崎君。聞いてもいいかな?」
突然口を開いた私に、篠崎君は少し驚いたように顔を上げた。
さっきから、どうしても引っかかる事が一つある。
胸の中に湧き上がったその違和感が、チクチクと、まるで何かを知らせようとしているみたいな疼きをみせていて。
「春希は、松元さんのことが好きなんでしょう?」
今は「気持ちがなくなった」と言っていたけれど、少なくともその時は好きで付き合っていたはず。
「それなのに、どうして彼女の事を“あの女”なんて呼ぶの?」
春希と松元さんが一緒にいるところを見たことなんて、本当に数えるほどしかない。
だけど、それを見る度に、なんだか不思議な気分になっていた。
こんなことを言ったら、自惚れているとか、驕っているとか思われるかもしれないけれど……。
少なくとも私と付き合っていた頃の春希は、私に対してあんな態度を取ったことは一度もなかった。
いつも人をからかって、バカにするような言葉を笑いながら言うことは確かにあったけど、それでもそこに“愛情”は感じられた。
「私が先入観を持ってるだけなのかもしれないけど、春希って……好きな子をもっと大切にする人だと思ってたから」
私の小さな声が、静かな部屋に響いて……。
「芹沢。本当のこと、知りたい?」
篠崎君の真っ直ぐな視線に、胸がドクンと音を立てた。
――“本当のこと”?
「知りたい?」
それを知ったら、どうなるんだろう。
閑静な住宅街にあるこの家の近くには、学校があるのか……。
下校途中の子供の、キャーキャーと騒ぐ楽しそうな声がわずかに聞こえる。
だけどこの部屋の中は、まるで世界が違うみたいに、空気が重々しくて。
「――全部、話して」
そこに響いた自分の声も、知らない誰かの声のようだった。